インターステラー

Amazon Primeで、クリストファー・ノーランインターステラー」(2014年)を観る。二度目。宇宙船の外壁がえんえんと映し出されてるとか、巨大な菓子箱みたいな形をしたロボットの動きとか、ああいう無音・静寂・無時間なイメージを呼び起こす独特の感じは、クリストファー・ノーランに固有の手触り感だな…と思う。

このような話がどういった物理科学の理論に支えられて成立するのか、そこをじっくりと検証しながら観る(観終わってから調べる)ことが、本作を観る楽しみの大きな割合を占めていて、登場人物らの行動や判断や展開を予想するよりも、この物語が成立しうる原理の不思議さや不気味さをともなった「超・わかりにくさ」を味わうことに、より多くのリソースを振り分けて鑑賞することが、本作の観客には期待されているだろうか。

ただし終盤の展開は、よくわからないけどさすがに上手く行き過ぎというか、さすがに主人公にとって都合良過ぎというか、もしかするとこの結末はすべて、主人公の彼が絶命する瞬間に見た妄想なのでは…とさえ思ってしまう。もし本当にこの通りだったなら、それは「彼にとって最高」だろう。もしこの通りじゃなくても(この映画がこの主人公の主観世界ならば)、彼は「最高」の夢を見ながら死んだことになるだろうか。

それにしても、悪役としての死を遂げるマット・デイモンが背負った、あるいは最後にもう一つの惑星へ向かうアン・ハサウェイがこれから背負うはずの、圧倒的な孤独と絶望の深さをどう考えれば良いのか。そのことがどうしても気になってしまう。プランAは不可能であることを知っていたのに嘘をついていた博士はともかく、希望の余地はないにもかかわらず地球へ信号を送り続けていたマット・デイモンのことを、狡くて悪くてみっともないやつだと言い捨てるのは、真面目に考えるとけっこう難しいことのような気がする。

最期も、あんなトラブルある?と腑に落ちない感じだし、アン・ハサウェイは無事であることが最後に確認されるけど、これも話が上手すぎるというか、やはり主人公の彼の「そうであってほしい」願望のビジョンではないかという気がしてしまう。ちなみに「もしかするとすべてが一人の妄想ではないか?」といった疑いを思わず誘発するような話というのが、必ずしも悪いとはかぎらなくて、精巧かつ繊細なこわれものみたいな、そんな自己完結性の密度ゆえに「面白い」ものもたくさんあると思うが…。