ドライブ・マイ・カー

TOHOシネマズ 西新井で濱口竜介「ドライブ・マイ・カー」(2021年)を観た。

娘の死によって幸福を失った夫婦がいて、やがて妻も亡くなり、残された夫が、たまたま出会った運転手女子の過去の傷を知ることで、心の回復への糸口を見出すような、すごく「村上春樹」な世界に、正直鼻白むというか、呆れて辟易するところも、ないではないのだが、しかしそれを踏まえても、本作は魅力的な作品だった。たとえば前作「寝ても覚めても」(2018年)が、言葉による表象しか許されない小説というメディアに対して、視覚的な事象すべてが映りこんでしまう映画の特性をそのまま露呈するかのような、小説の仕事に対する映画からの批評的解釈という風にも読めるような作品だったようには、本作は原作への「ある視点」を鋭く突き付ける結果にはなってないとは思うし、村上春樹的なものと濱口竜介的なものとが、むしろあまり混ざり合わず、それはそれ、これはこれと、そのままで投げ出されているような感じを受けるのだが、そうでありながらこの映画は、三時間という長丁場の上映時間にわたって展開される話を、おどろくべきスムーズさで結末まで運んでいくのだ。

濱口竜介の作品は長尺なものが多い。三時間や五時間の映画をじっと観続けるのは、心身を少なからず消耗させるはずで、自分など90分の映画にすらそう感じることもあるのだが、濱口竜介の作品からそういう負荷をあまり感じることがないのは、いつも不思議だ。

映画を観ていて、ある出来事がはじまってから終わるまでの時間を意識するとき、それがたとえばかなり重大で不可逆的なエピソードなのに、画面の動きとしてはほんの数カットが繋げられただけのことであらわされているのに気付いて驚くことがある。たとえばDVDで、ある映画のラスト15分だけを観たとき、その作品の残り時間は、たったの15分しかないはずなのに、物語としてはまだ終盤の気配などいっさいなく、しかし画面を見るうちに短い時間の内でいくつもの出来事がコンパクトに展開していって、最後によく知ったラストシーンへつながっていき、たったの15分で本当にその映画が終わってしまうことに驚くときがある。その15分の中で、如何に凝縮された無駄のない、むしろ映ってない何かを盛大に利用した技の冴えに満ちているかを、DVDを再生しながら秒単位で感じることになる。最短の時間でスピードをともなったイメージ連鎖を仕掛けることで、ある出来事をたしかに体験したと観る者に思い込ませる、映画の編集のすごさというのはそういうところにあると思う。

濱口作品は、そのような編集の技とは一見無縁なようにも感じられる。むしろ出来事をひたすら映し続けるような、ひとつのやり取りを最初から最後まですべて映しきってしまうような、そんな場面の連続という印象がある。にもかかわらず、それは三時間を一気に後方へ押しやってしまうほどのテンポの良さというか小気味良さも兼ね備えているのだ。

濱口作品が、どのように切り取られて、編集されているのか。映画を観終わってからそれを思い返すのはけっこう難しいのだが、とりあえず、ある場面が始まってから、ある種の納得がおとずれるまで撮影されきっている、という感じはする。役者が話をはじめてから話を終えるまで、あるいは走る自動車から見える前景が移動のたびに変化していき、目的地に達するまで、ひたすら撮影され続けている、という感じはする。しかしそれは、単にひとまとまりの、やや長めに切り取られた1シーンということではない。シーンとしての独立性が主張しはじめる直前で寸止めされてはいるけど、それはやはり編集され映画に奉仕しているシーンでもある。撮影されたそれ自体を観ている状態と、あるイメージ連鎖の過程を観ている状態との、混ざり具合の絶妙な按配があるのではないか。その快適さが、濱口作品を観ているときの楽しさではないか。

濱口作品においては、俳優として演技をする俳優といった位置づけの登場人物(メタ役者/メタ登場人物)が、非常に多い。彼らもまた、その映画に奉仕していながら、登場人物としては物語や意味から必至に適切な距離を取ろうと悪戦苦闘する人々であったりもする。登場人物の演技が、そのフレーム内で要請されている演技に対する自己言及性を持たざるを得ないような仕組みがあり、その撮影が、そこで要請されている映画の素材と化すことに対するある距離感を持たざるを得ないような仕組みがあるのだと思う。それは闇雲に既存の制度に対する反抗という姿勢ではなくて、むしろ制度に従順ではあるのだが、あらかじめ仕組んだ物語のフレームが、制度に従順なはずの演技や画面を、そのままの縮尺をたもったままで引き延ばしてしまったというか、とにかく何かが従来とは違うものにしてしまう感じなのだ。

主人公の、演出家である西島秀俊の指揮下で「ワーニャ伯父さん」の舞台をつくり上げようとする俳優たちがいる。彼らはテキストに身をあずけ、自分をテキストに解体することで、作品に溶け込み、それで「ワーニャ伯父さん」の世界を生きようと試みている人々とも言える。それは、苦しみに満ちた私たちの「生」を、それでもどうにか引き受けて生きていくことと、来るべき時が来たら安らかさと共に死んでいくのだと、ある諦念を含んだ、幸や不幸に還元できぬ想像の生を共有しようということでもある。

西島秀俊が作劇する上でのコンセプトとして、各俳優たちが各々の言葉を理解できないままで物語を進めるという特長がある。役者は、日本語、韓国語、英語、手話など、自分に可能な表現で台詞を担う。脚本は共有しているが、役者は対話相手が発声する言語の意味を理解しないまま演技を続ける。

このような形式をもつ演劇が自身を立ち上げるにあたり、最初の前提としてあきらめ捨てたものについて考えることが、各登場人物が傷つき喪ったものについて考えることとが重なるような構造を、この映画はもつと言える。

西島秀俊はこれまでの間に、そのテキストを読みこめば読み込むほどに「ワーニャ伯父さん」という作品のもつ過酷さに打ちのめされてしまっているようで、これまでのように自分がワーニャ役を演じることが、もはや不可能だと感じてもいるようだ。そこで、オーディションにやってきた岡田将生に、ワーニャ役を割り当てる。岡田将生は当惑する。そもそも彼が西島作品のオーディションにやってきた理由は、自分もかつて愛した、すでに亡くなった西島秀俊の妻についてもっと知りたく思い、さらに夫である西島秀俊のことをもより深く知りたく、同時に自分だけが知っている秘密を西島にうちあけ、出来るならば一人の女についての記憶を、西島と分かち合いたかったからである。

しかし岡田は若く、自分自身をもてあまして制御できない、感情や気分に流されやすく、近づいてきた女とすぐに関係ももつし、隠し撮り撮影の相手に対して荒らぶり、湧き出る暴力を止めることができない。西島はそんな岡田に、可能性と一縷の望みを見出していたのかもしれないが、結果的に岡田は自滅し、西島秀俊の期待は裏切られる。舞台の中止か継続を迫られた西島秀俊は、運転手の三浦透子が生まれ育った北海道の生家跡を訪ね、被災した生家の残骸がかすかに見える以外は雪景色が広がるばかりの景色を二人で見つめ、彼女の過去を知り、彼女を通して自分の心の奥を探り当てる。悲しみを乗り越えて生きる希望を見出した西島は、最終的に「ワーニャ伯父さん」の舞台に自ら立つ。

…前述したように、この「見いだされた希望」が、どうにも取ってつけたものとしか感じられなくて、最後がこれかよ…と思って、やや唖然とするような感じだったのだが、しかし最終的に無事上演された「ワーニャ伯父さん」の異様さ、異なる言語がそのまま登場人物たちのやり取りで用いられ、観客へは複数の言語による字幕が指示されるが、役者同士はお互いの話す意味を介しないまま芝居を続ける。発語障害をもち手話によって演じるソーニャ役の韓国人女性が、最後にワーニャに対して手話で話しかけるシーンの素晴らしさに、観る者はようやくこの映画を観続けてきたことが報われたという思いになる。この断絶こそがすばらしい、というよりもこの断絶を最低限の前提にしなければ「救済への希望」も不可能だろうと思う。異なる言葉を用いた複数の登場人物が、そのまま生きていることに、希望が託されているということ、この舞台を演出した西島秀俊も、そのことをよくわかっているはずだ。

この映画で、一貫して「救済の希望」の可能性を担っているのが、ソーニャ役の韓国人女性であると言えるだろう。西島秀俊とドライバーの三浦透子は、二人とも救済を求め、互いを励まし合う関係となった。その二人が、彼女によって導かれ、あらたな道を教えられたのではないかと考えたくなる。