デュラス映画

アテネフランセ文化センターで「アテネ・フランセシネマテーク 映画の授業」より「インディア・ソング」と「ヴェネツィア時代の彼女の名前」を観る。デュラス監督作品を観るのは初だ。千代田線で新御茶ノ水駅に向かう途中、千葉県の地震のため途中駅で運転が見合わせとなり、万事休す、こりゃ間に合わないかと思ったが、五月らしからぬ猛暑の中汗だくになってどうにかギリギリで間に合った。しかし館内は老若男女で驚くべき超満員。暑いのに皆ですし詰めになって暗い場所で小さなスクリーンを観ようと集まってくる。どちら様も実に熱心なことで頭が下がる思いだ。

インディア・ソング」。複数の語り手同士の会話音声と音楽、フランス大使館の官邸内に漂うように存在する登場人物たち、この音と映像が一致していないのが「インディア・ソング」の特長の一つである。音声(会話)は登場人物たちの行動とまるっきり別の話をしているわけではなくて、むしろ彼らを説明しているようにも、彼らのすぐ傍にいるようにも感じられるし、場合によっては彼らの脳内の言葉がそのように再現されているように感じられなくもないのだが、しかしとりあえず映像としての登場人物は無言のままで、その場に立ち尽くしていたり手を取り合ってダンスをしていたり、座っていたり寝そべっていたり、膨大な時間の中を静止に近い状態のままひたすら佇んでいる。音と映像が乖離するのだからゴダール的とも言えるのだろうけど、ゴダールのようなめまぐるしい切った貼ったの落差の連続性はなく、じっくりと長回しのうつくしい映像に複数の読み手による音声のテクスト朗読が、そのイメージと絶妙な距離感を保ったまま続いていくような感じである。そして音楽の使われ方がまた印象的で、ほとんど音楽映画ではと言いたくなるほど全編に音楽が鳴り響いている、が、曲数自体がたくさんあるわけではない。官邸外をうろついているらしい精神を病んだ物乞いの女の歌からはじまって、タイトル曲「インディア・ソング」のピアノ線率が奏でられて、その後同曲の管楽バージョンとか、別の曲とか、終わってはまた始まる感じ。

カルカッタの異常な蒸し暑さに包まれた夜の長さとか、恋慕に類する感情とか、記憶とか、舞踏とか、そのようなイメージをあらわす役割を映像は担ってなくて、それは主に音声(読む声)で伝える。映像は室内に佇んでいたり、ゆっくりと移動したり、椅子に座っていたり、体を寄せ合って踊る男女や室内外の景色をとらえていて、撮影された映像はどれもうつくしく、しかし濃厚な退廃感というか虚無感、もう終わった感に満ちている。ほとんど死後の、複数の幽霊がさまよってるだけの世界っぽくもある。室内に特徴的なのは壁に設置された巨大な鏡であろう。全編にこの鏡を活用したシーンがたくさんあって、鏡を見ている女の背後から男が近付いてきて、女の背後に立ち、女は振り向いて男を見つめて、その場を移動して部屋の反対側まで歩く。それを男がおなじ歩調で追い、その様子をさっきからじっと部屋の隅で眺めているもう一人の男がいる・・・。以上のシチュエーションが、カメラ自身は鏡に映らないままで、ゆっくりと右から左へパンしながら、ほとんど鏡に映った状態の映像としてとらえていく。すなわちほとんど虚像をとらえることになるが、虚像でなければ全体を映せないような状態としてとらえられている。

だからどうだ、というわけでもないのだが…この主人公の女性アンヌ=マリー・ストレッテルは、デュラスの複数の小説作品に登場してくる重要な登場人物で、最初から幽霊っぽいというか物語存在的には運命に揉まれながら死へ向かうようなイメージで、本作においてもこのあとカルカッタではなく周辺の島まで行き着いた後で亡くなることになっている。夜から朝へと向かう後半以降は、彼女を慕うラホールの副領事官の、運命に抗おうとするかのような絶叫が何度もリフレインしてきて、彼も彼女もすでにほとんど此方の存在とは言いがたいような感じなのだが、朝の光を浴びつつ周囲を取り巻く男の一人となおも逢瀬を重ねているかのような彼女はやがて官邸外のどこかに消失する。少し唐突なように今がその時代、両対戦間の1930年代であることが語られ、中国、日本、欧米各国の状況が簡潔に述べられる。地図の各場所を指し示しながら、アンヌ=マリー・ストレッテルの生涯の軌跡が示される。

ヴェネツィア時代の彼女の名前」。驚いたことに「インディア・ソング」と音声がまったく同一で、映像だけが違う。さっき聴いた歌声がまた聴こえてきて、その後も耳におぼえのある音が連続して聴こえてくるので、ああこれはもしや…そういうことなのか、ということは…これからさらに、これまでと同じだけの二時間をこうして過ごすのか…と半ば絶望感にうちひしがれる(笑)。ちなみに映像はどこかのお城みたいな立派な邸宅の完全な廃墟の、室内外を繊細かつうつくしい撮影でとらえた映像だ(「インディア・ソング」のロケ地の邸宅が廃墟になってしまった様子なのか?とも思ったが、そんなはずもなく、ネットで調べたら、南仏のロスチャイルド邸らしい。しかもフランスが建て直し工事をする直前の、時代による劣化が剥き出しなままの貴重な映像らしい)。

完全無人の、ひたすら廃墟だけの映像に、「インディア・ソング」の音すなわち声と物語と音楽だけが、もう一度繰り返されていく。こうしていると音というのは、映画を構成する割合のかなりの部分を占めているのだなと思う。さっきまで観ていた物語…というよりも聴いていた物語---しかし聴いて映像を観たことで自分の頭の中に勝手に生じた「インディア・ソング」の印象のすべて---が、もう一つの映像を観ながらあたかも半透明のイメージのように記憶に重ねあわされる。これはこのように二作を連続で観るからそう思うのかもしれない。「ヴェネツィア時代の彼女の名前」だけを観ることももちろん可能だろうし、それはそれでまた新たな印象をもたらすことだろう。いずれにせよこれだけ長時間、音声と映像の距離感の不安定さを観続けているのはちょっと他に類のない体験である。終盤の方で、きっと最後まで無人のままだろうと予想していた映像に、突然人の姿があらわれる。ほぼ動きはなく、人なのか写真なのか絵なのか一瞬判然とせず、けっこう背筋がゾッとする。

しかし、休みなしで二本立てを計四時間観て、わかっていたとは言えかなり疲れたけど、たまにはこういうのは楽しいことだ。爽快な疲労感である。アテネフランセの椅子は最近の映画館みたいにそれほどちゃんとした椅子ではないし席間隔も狭いけど思ったよりも辛くはなくてそこも良かった。帰宅してからもうちょっと映画を、と思ってもう一本観た。