序の舞

能が行われるのは能舞台だが、その舞台とはあるひとつの風景とかあるひとつの空間を示してなくて、それは出来事によってその都度読み替えられるための仮想空間のようなものだ。

たとえば映画での「スクリーンの外」。スクリーン上の人物が見ている視線の先が、その世界の「外」であることは珍しくない。そのとき、本来はばらばらなはずの二つ以上のイメージがつながりうる。映画を観る我々は、スクリーンに展開されるイメージの連鎖から、ある出来事の流れを知覚し認識する。

同じことは、能にも言えるはずで、能にも「外」はある。目に見えている物事だけが、能のすべてではなく、むしろ能においては、その場に見えていない物事の方が多いとさえいえる。

能にもフレーミングがあり、ショットがあり、モンタージュがある。しかしそれらは映画のような(現実のような)なめらかさをともなってないので、知覚していながら、それが容易に次のイメージを呼び込まないまま、それだけの剥き出しのようなものが、現前し続ける、、と自分は思った。

(黒澤明の映画などで、妙にわかりやすく扱われてしまう能のイメージではなくて、もっととりとめなく、露わで、そのもの自体である。)

ここにかつて、何らかの約束事があったということがわかる。風化してかすれて見えなくなった交通標識のように、それがかつては何らかの意味を成していた。しかし能は、いまも風化してかすれて見えないわけではない。そのことがかえって剥き出しの感触をもたらす。

リテラリズムそのものであること。

反応にも行動にも見合わないもの。ただの観客、観る者に生成するしかないもの。

運動イメージは、人物が世界に働きかける。時間イメージは、世界は働きかけるにはあまりにも耐え難い。あるいは凡庸なものだ。

運動に時間を従属させるのが、運動イメージで、運動が時間に従属するのが、時間イメージである。