読者

小説を読んで、その登場人物や出来事を客観的な視点から眺めることのできる読者は存在しないと言える。そんなことはない、私は客観的な視点から眺めていると言うなら、その人はその時点で「読者モード」を自らオフにしているのだ。

読者というのは、いわば自由を奪われた存在だ。あるのっぴきならない、息詰まるような出来事と、ある身体を経由した思念、想像の束を、まさぐりかきわけるときの感触のみを生きるだけの人である。それこそが現実感であり、私は客観的に判断しているとの思いさえ、その枠内にしか生成できないような場所にいる。

それにしても志賀直哉の作品にしばしば出てくる、その主人公の奥さんに対する態度のひどさには、思わず引いてしまう。さすがに「読者モード」をオフにして「これはひでえなあ」と言いたくなる。ひどいだけならまだしも、さらに驚かされるのは、この作者は作品においておそらく「この主人公は妻に冷酷な態度を示すやつ」ということを、読者に印象付けようとは全く思ってない。だから、露悪的ですらない。

でもそれは、あたりまえだ。印象を受け止めようとするのは、つねに読者ではなくて「読者モード」をオフにした相手で、いわば当時者らとは別の場所に生息する立場に過ぎない。しかし読者は当事者と同義である。当事者は天上からの神様による視線をつねに意識してはいない。

志賀直哉的なものに、ふーっと惹かれてしまうことは、しばしばある。そこにはたしかに、ある魅惑的なものがある。

そもそも志賀直哉の作品に"神様"など、ありうるだろうか。そのような視点から遠く離れて、ひたすら当事者でありつづける登場人物の行程が綴られているといった印象を受ける。もしかして志賀直哉という人は、その仕事とはどこまで"別の視点"を考えること無しに生きていくことが可能かを探る試みだったのだろうか。

しかし翻って考えると、そのような構えこそが旧式な意味での「男性性」ということにもなるだろうか。男性的であること=別の視点を必要としない、単独的であるということならば。