アンドレイ・タルコフスキーサクリファイス」(1986年)を観る。僕がかつて、はじめて観たタルコフスキーが本作だが、でもこの映画を必ずしも大好きだったわけではなくて、一度観ただけで今や記憶もおぼろという状態なのに、久々に観たこの映画の示す美的と言って良い質感が、これぞまさに「あの当時」で、それがこうして今、目の前に生々しく再来するのをただ見ているばかり…という感じだった。

それは「懐かしさ」の感情とは異なっている。この美的質感には今も昔もないのだが、ただ当時の様々なメディア、大規模書店やCDショップやミニシアター界隈、そしてもちろん大学構内において、これらのイメージは確固たる存在感で君臨しているかのようで、少なくとも自分にとっては強い切迫感をともなっていた気がする。だからこそ、それほど好きじゃなかったつもりだったけど、でも観なおしてみたら、なんだ、やっぱり好きだったんじゃないかと思った。

思ってたほど「芸術的」な映画じゃないのだな、とも感じた。最初の屋外と最後の火事は、ケレン味あふれる「魅せ場面」で、そのあいだに沈鬱な室内シークエンスが挟まっている感じだ。中盤の退屈さも、あるいは壊れた自動車や散乱する塵芥、瓦礫、行き交う人々らを、真上から見下すショットがゆっくりと移動して世界の混乱を示すところなども「あの当時」そのものだなと思う。

冒頭、主人公と息子の周囲を自転車でうろうろと走ってる配達人の長いワンカット。そうかこんな感じだったか…と思う。その後まるで演劇の舞台みたいな室内空間の場面に移り、主人公の誕生日(五十歳よりもっと老人に見えるが…)に集まった登場人物として、内面に強い不満や苛立ちを抱えていそうな奥さん、醒めた表情の娘、このしがらみを振り切って外国へ職を求めたい医者の友人(誕生日に贈ったイコン画集がすばらしい。あの画集ほしい…)、世話好きで話好きだがどことなく胡散臭い配達人・蒐集家の男(彼はある意味で、この世界において情報を担う者の象徴的存在だろうか。あの胡散臭さと気の良さの背後に、忙しなくも魅力的な世界の喧噪が隠れているようでもある。)、そして女中の若い女、もうひとりの使用人、彼女の名はマリア。そして術後のため今は声の出ない、二階で眠る小さな息子。

テレビが終末戦争の勃発を報道し、世界がこれから終わりを迎えることが知らされる。あの胡散臭い配達人が真夜中に訪ねてきて、主人公に耳打ちする。この世界を救うために、あなたはこれから使用人マリアの住む教会へ行け。そして彼女と一夜を共にせよ、それで世界は救われるはずだと。

狼狽えながらも主人公は配達人から借りた自転車でマリアの元へ走り、彼女の元で幼少時の母の記憶を涙ながらに話し、自分を愛してくれと彼女に懇願する。彼女も涙を流しながら、もう怖がらなくて良いと言って、服を脱いで彼を抱擁する。身体を横にして寄り添ったふたりは、ソラリスよろしく無重力状態でゆっくりと回転しながら宙に浮かぶ。…思い出しながら書いてて、しかしなんて話だとやや呆れるところもある。世界の救済と私の救済はここで意図的に重ね合わされているのか。この図々しさもまた、巨匠(男性)の晩年作品…というところか。

一夜明けて、何事もなかったかのような、まるで一日分が巻き戻されたような平穏な一日がはじまる。主人公はもちろん事の顛末をおぼえている。彼は自らを犠牲にすべく、自宅に火を放ち、精神錯乱して、救急車で運ばれていく。家が焼け落ちていくまでの長々としたワンカット。家のかたちを嘗め尽くすものすごい火炎と音、登場人物たちがやってきて、救急車がやってきて、主人公が右往左往して、最後は奥さんも水溜まりに浸かったままがっくりして、マリアが自転車でその場から退場するまで、この間、全部で何分くらいだろうか。このラストの面白さだけで、二時間半の疲れも吹き飛ぶという感じだ。