Amazon Primeでヨーラン・ヒューゴ・オルソン「ブラックパワー・ミックステープ ~アメリカの光と影~ 」(2011年)を観る。

アメリカの黒人活動家、マーチン・ルーサー・キングとか、マルコムXとか、または本作品に登場するストークリー・カーマイケルや、アンジェラ・デイヴィスにせよ、このような映像を観ていつも思うのは、彼ら彼女らの唱える問題を受け取ることと、彼ら彼女らの言葉や身振りの魅力に惹かれるということを、分けて考えなければならないということだ。

ただ、それとこれとを完全に分けることが不可能であるのもまた確かだ。言葉が言葉だけで届くことはありえないからだ。

そして、それを聞く自分の立場というのがある。自分は当事者ではない。アメリカ合衆国において、黒人は怒りを基底に、白人は恐怖を基底に、同じ地面を分け合う。日本に住む自分は、そのどちらでもない立場である。

非当事者が(あたかもバスツアーの観光客のように)それを表面的に知ることは、差別のこと始めであるが、ただしまずは観光客のようにそこへアクセスするより他、それを知る手立てはない。

先日観た同タイトルにおけるボールドウィンの言葉「私はあなたのニグロではない」は、あなたがあなたの都合に合わせてつくりあげたニグロは、けっして私たちではないということで、ボールドウィンは、あなたがた白人が自ら作りあげたニグロを、あなたがたはどうするつもりなのか考えるべきだと言う。

黒人は白人に、これ以上どうしてほしいのか?これ以上何を望むのか?これまでの取り組みに合意していたのではなかったか?あなた方は当初決めた我々のルールを忘れたのか?

白人と黒人、差別者と非差別者、だからその解消…という、そんな、あなたの思っている二項対立ではないのだと、それを勝手に持ち出したのは、そもそもあなたがたの方ではないかと。私もあなたもきっと、望んでいないけれども、私たちは一国内において、望む望まぬを問わず、すでに家族ではないかと。そのことの重みを受け止め、互いに覚悟を決めなければいけないのではないか、その気が、これまでもこれからも、あなた方にあるかと。