サマー・オブ・ソウル

TOHOシネマズシャンテで、アミール・"クエストラブ"・トンプソン「サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)」(2021年)を観た。これはすごい。こんなものを観ることになるとは予想だにしなかった。ブラック・ミュージックの中に色濃く流れている、ゴスペルの血液の色と濃さと粘り、その濃厚さにしっかりと包まれた二時間。

冒頭のスティービーワンダーからいきなり強烈に煽られて、おお、、これはかなりすごいけど、まだ大丈夫、冷静さを失わずに、さいごまで落ち着いて行きますよ…などと思っていたのだが、何しろ出てくる演者が、みな楽しすぎた。ソウルきわまりなくて、まいった。ステイプル・シンガーズの完璧なシャウト。アレサ・フランクリンだけがゴスペル系ソウルではない。アメリカのソウル歌手の層の厚さと奥深さ。マヘリア・ジャクソンとメイヴィス・ステイプルズが共演する「Take My Hand, Precious Loud」を、涙なしで聴くのは難しい。観客の表情を見ているだけで、こちらまで彼らと同化しそうになる。演者の声が天上を越えて極限にまで上り詰めるとき、観客の彼ら彼女らは、喜びとも恐れともつかぬ不思議な表情をする。まるで自分の内側の何割かが吸い取られているかのような、漠として頼りない表情に見える。それを観ている自分も同じように、何かがからっぽになる感じがある。このままエンドレスのループに身体を預けるしかないテンションに導かれている。

まだ若きスティービーワンダーは血気盛んでエネルギーに溢れていて、ドラムもクラビネットも全身で揺るがせシバき倒すかのようなファンキーなプレイで、グラディス・ナイト&ザ・ピップスのダンスは完璧で、ジャズだとハービー・マン、マックス・ローチソニー・シャーロック(!)らの放つ熱量がものすごくて、ニーナ・シモンの殺気みなぎるような迫力には固唾を飲むしかなくて、…なにしろ最初から最後まで、ほぼすべてが見どころという感じだったけど、前述の大ゴスペル大会が終わった後、スライ&ザ・ファミリーストーンがやたらと勿体ぶって登場してくる場面には心底やられた。このグループのすごさを、あらためて再認識させられた。

人種性別混合、服装も髪型もばらばらでむちゃくちゃ、ソウル歌手の伝統をことごとく無視したその風貌、佇まいが、もはや演奏のはじまる前から、異様と言って良いほどの「政治性」を強烈に発散させているのだった。ロック(と、あえて呼ぶが)ミュージックの、もっとも先鋭的で過激で、誰の手にもおえない最悪に厄介な状態とは、まさにこれだと思った。彼らが放つ雰囲気は、聴衆をたじろがせ、一瞬うろたえさせるに充分なものだ。威圧感とか迫力とかではなく、むしろその反対の力として。言葉本来の意味で、彼らの姿は「意味不明」で「わけがわからない」。単純な抵抗のイメージではなく、やわな感情移入もまるで受け入れない、彼らにまともな演奏を期待するなんて間違っていると思わせる。超満員の、ほぼ全員が黒人の観客の前で、ステージに立つドラマーが白人というだけで「冗談だろ?」と言いたげな視線が殺到する。「無理だろ、出来るわけないだろ」と。にもかかわらず、「Sing a Simple Song」の演奏が始まるや否や、空間すべてが彼らの音楽に変わる。何が「革命」かと言って、このときほどその言葉が似つかわしい瞬間もないだろう。

しかしこんな映像が今日まで、未公開で残されていたとは。全貌としてどのくらい記録が残されているのかわからないけど、演奏シーンを出来るだけ長尺に収録した再編集版がいつかリリースされないものだろうか。