攻撃的提案

ミレニアム・パレードと中村佳穂のテレビ出演はさすがに見ておきたいと思って、テレビは紅白歌合戦にしていた。もしかして、中村佳穂という人物に、ここに来てついにはじめて、緊張や固さやぎこちなさの様子を見ることができるだろうかという不安(期待)を抱きつつ見ていたのだが、まるでいつも通りに楽しそうにノビノビと歌っていて、安定感、すごいな…と思った。

自室に戻ってPCで無料配信のゲストトーク&中村佳穂弾き語りライブを観る。久々に「もっていかれる」感じだった。いつものことながら、その場の思いつきの言葉の連なりからじょじょにピアノ演奏を組み立てていく例のやり方のテンションのありように圧倒される。

ゲストトーク出演者の発言も一様にそんな印象だったけれども、中村佳穂を聴いてしまった人がもつ共通の感覚として「俺はもうアレを知ってしまった」「中村佳穂を説明するならば、あのすごさを感じてもらうしかない」「それ単独ですごいので、それをすごいと言うしか出来ない」みたいな、そういう「すげー!」を共有するしかない、みたいなことになってしまう。音楽の凄さとかミュージシャンの凄さは必ずしもそういう突出した個人能力に帰するものだけではないはずだとは思うのだが、それにしても今ここにある突出した個人能力には驚嘆、賛美、共有したいと考えないわけにはいかない。

たぶん、より優れた、よりオリジナリティをもったミュージシャンであればあるほど、自分を取り巻くほぼすべての場所はアウェイであろう。自分が独自であればあるほど、理解・受容の機会は後回しにされ、とりあえず既存の枠組みへの回収が試され、それが果たせずコストがかさむことでの軋轢が増える。だから彼ら彼女らすぐれたミュージシャンが感じさせる圧倒的な自己肯定感とは、その発揚がそのまま自分から他の場所に向けた「攻撃」でもあるだろう。攻撃という言葉はふさわしくないかもしれないが、旧態を維持しようとするあらゆる場や組織に対して、あたらしい価値を単独でプレゼンテーションし続けるのが彼ら彼女らにとっての死活問題であるからこそ、その肯定感は、ほとんど平常の状態に対する「攻撃」のようなものになる。音楽が鳴ることで、その攻撃が見事に功を奏し成果をあげていくことの爽快さを、彼ら彼女らの魅力にとりつかれた者らは、まるで我がことのようによろこぶ。

これは前衛的芸術がもつ魅力の最たるものでもあるだろうけど、べつに中村佳穂は先鋭的ではあるが前衛ではないし、こういう言い方を使い始めると話がややこしくなり悪手だけど、なにしろ、くりかえすけど音楽とは決してそれだけのものではないはずなのだが、しかし彼ら彼女らのそのような取り組みに、強く心動かされるのも事実だし、それを否定するのはむずかしい。