ミシェル・フーコー的な権力と知の関係、一筋縄で捉えるわけにはいかない力の発動と、それと不可分に作動する知との関係について考えるときに、僕はたまたま現在の関心がそれに向いていることもあり、ナイチンゲールという人物のことを思い起こしてしまう。よくも悪くもナイチンゲールこそは、その生涯において権力と知との複雑な絡み合いを体現した存在であり、この人物こそは「近代」のサンプルにうってつけではないかと感じられる。

ナイチンゲールはつまり「看護」を近代化した人物で、もちろんそのモチベーションの根本には「慈善」や「慈愛」もあるだろうが、もちろんそれすらある人物の内面から発して広まっていったというよりは、ある得体のしれぬ力のうごめき、不断で分散的な寄り集まりと離散の運動下における一要素にすぎないだろう。ひとりの人物が、何らかの目的をもって事を成すということ自体が、事後的な物語にすぎない。クリミアでの慈愛の天使というイメージも、烈女のイメージも、統計学者のイメージも、すべてナイチンゲールその人とは無関係だし、ナイチンゲールその人さえ自分を知らないし、何かを知るとは個人について知るということではない。

近代の、少なくとも19世紀半ばからはじまった、わけのわからなさについて忘れることのないようにしつつ、今我々の生活に行きわたっている衛生状態をありがたく思い、同時にそれが災害その他で意外なほど脆く崩れてしまうことも、しっかり想像しておくこと。

(現代のたとえば「ゴミ屋敷」さえ、昔の貧民窟とくらべたら比較にならぬほど衛生的であるだろう。しかし昔の貧民窟の汚穢が今後絶対に復活しないとは言えないだろう。そして想像を絶するような、致命的なレベルの不潔さに慣れてしまうことは、今の我々にまだ不可能なわけでもないだろう。)