言葉で物事を説明するとき、まず結論を言って、次にそれの根拠となる条件を挙げるとする。たとえば、ほんとうに幽霊を見た、そのことを書くならば、それが本当である根拠を並べるべきなのか。

いや、そうではないのだ。ほんとうに幽霊を見たあなた自身を、よりよく現わすことができれば良いのだと誰かが言ったとする。なるほどたしかに、自分がほんとうに幽霊を見たのは動かぬ事実であるならば、そんな自分をより正確に言葉で説明できるなら、説明先の相手にとっても、ほんとうに幽霊を見た経験そのものについての説明は省略できるに違いないだろう。

ただ、自分は逆に、ほんとうに幽霊を見た自分の経験とか、そんな存在である自分そのものを説明したいわけでもないのだ。そこを誤解されたくない気はするのだ。書くとどうしても、自分の意欲がまず前に出てしまう、そこは何とかならないのだろうか。

誰かが私を信じようが疑おうが、ひとまずどちらでもよくて、本質的問題は幽霊の言い分なのだ。私がほんとうに幽霊を見た経験そのものについてはどうでもいいのだ。私が説明すべき物事とは、私が見た幽霊を誰かに信じさせるために工夫されるべきであって、でも言葉で物事を説明するとき、なぜ説明主体である私が、ことの信憑を常に疑われなければいけないのか。

幽霊は常に、あなたがほんとうに私を見たということだけを言う。私はだからそれだけを言葉で誰かに伝えなければならない。でもそのことに誰もが失敗する。こうして誰もが浮かばれない。気の毒なのは、幽霊でもなければ私でもない。