伯爵夫人

週の途中で月が替わるというのが最近少なかった気がして、だから今日は月初の感が薄い。というか木曜日であるとの意識が薄い。そもそも今週は火曜日くらいから、今日が何曜日なのかきちんとわかってなかった気もする。今週が長かったのか短かったのかわからない。いつからはじまったのか、いつ終わるのか、どうも腑に落ちない、といった気分のまま、どこでもない場所で、如何にも本物らしい偽物、あるいはどう見ても偽物としか思えない本物、どちらともつかない曖昧さばかりが、次から次へとまるで連続する夢のように連なっていて三枚の回転式ドアが回る音「ばふりばふリ」と性の官能に上がる歓喜の声「ぷへー」が頻出して「魔羅」と「熟れたおまんこ」にまみれて、登場する女性たちの次から次へとただ受身のままに股間をまさぐられてしゃぶられて、あるいは相手の首元や胸元にしがみついて相手の口内やら自分の猿股の内側やらにだらしなくなすすべなく射精して気を失って、遠い昔の祖父の代の営みの声が聴こえてきて、それはレコード再生音でもあり古い写真でもあり、目が覚めると先ほどの途中なのかまた別の夢なのかわからないままふたたび「魔羅」と「熟れたおまんこ」に埋め尽くされていて---但しそれはひたすら饒舌な登場人物たちの語りによるもので彼女たちのおそろしく説明的な行為の描写をえんえん聴かされているような体験で---そしてついに最後まで二郎は「熟れたおまんこ」に至らず童貞のままで、そんな小説「伯爵夫人」を最後まで読んだ。面白かったです。

主人公二郎の、すでに亡くなった祖父は「近代への絶望」により自らに射精を許すことはほぼ無く、しかし数少ない例外において二郎の母が生まれたと同時に伯爵夫人もまた子を身ごもることになった。偽物が本物めいた表情と態度を装うことが当然の振る舞いであり、すべてが疑わしくもっともらしい偽物に埋め尽くされた「近代」において「子を授かる」ことだけには正真正銘の真実らしさがまだ残されているとして、それでも二郎の母はほんとうに二郎の母なのか、ことによったら伯爵夫人が二郎の母である可能性も思い浮かべることが不可能ではないのか、そのような可能性、疑いから逃れることができないことが前提の世界。すべての出来事があらかじめ先取りされてしまった後のような世界がここだ。そもそも伯爵夫人と二郎との最初の出会いが、さっきまで観ていた活動写真で男女が追っ手から身を隠すときのふるまいそのままだったではないか。戦場における「陰惨な塹壕」はけして消滅することがないように思われるが、同時にそのイメージは複数回くりかえされ、荒唐無稽な復讐劇へと接続されたではないか。しかしこの小説は二十世紀前半の混沌そのものが舞台で、フランスとドイツが、あるいはイギリスとアイルランドがその均衡を大きく崩そうとしていた時代、世界大戦が再び始まろうとしている時代、それがあらゆる登場人物の出自や目的を霧の向こうの曖昧な何かにして、世界の大きな信頼の底が抜けたような「近代」の様相そのものになった、その時代のうごめきを舞台にしたどうしようもなく紋切り型でありきわめて冗長な偽物のポルノだ。おそらくはそのようにして映画をはじめとする玉石混交なあらゆる文化が生まれた。小説の最後で日本は米英に宣戦布告を宣言し破滅へ向かうことになるが、破滅が問題なのではなく、そもそも我々はどこから来たのか、だ。