映画愛の人

きのうは映画の本を適当に本棚から引っ張り出して読み返していた。

映画愛の教師は、映画史のうつくしさにひたすら心うばわれている。そんな過去の輝かしさに閉じ込められたままの自分を肯定して、こころゆくまで自閉して、幸福な記憶を思い起こしてはとめどなくけじめなく甘いイメージのなかに耽溺し続けている。

過去はあまりにもうつくしく完成されている、そのことへの強い確信があり、あこがれがある。映画愛の教師は、過去を愛することにかけては誰にも負けぬ自信と、誰にも劣らぬ自負をもつ。

行為としての愛、つまり対象によって自分が滅ぼされてしまうことをも許容する愛とは違って、映画愛の教師が示す映画への愛は、かぎりなく自己愛に近い。触れることがけっして許されない媒体を、ただ見つめること、それがいつか、他人の手によってこわされて滅ぼされるのを、密かに期待しているかのような倒錯的あるいは権力者としての愛だ。それはプルースト的な愛でもあり、うしなわれた十九世紀をなつかしんで現在を嘆くかつてのヨーロッパに存在したある身振りのパロディみたいでもある。

その映画愛は、愛の対象が他人によって汚されるのを何よりも嫌悪する。究極的には他者によって滅ぼされてしまうことを、心のどこかで望むがゆえに、才能にも配慮にも欠けたガサツな手がそれに触れるのを蛇蝎のごとく嫌う。

そんな映画愛を共有する二人の人物が「現在の映画」について語り合うとき、話題はどの「現在」が許せなくて、どの「現在」ならば許すことができるかの裁判判定に終始する。彼らが許せない現在など無い方がマシであるという、爽快なほどの反動性に充ちた権力者の身振りを、これみよがしにふりかざす。

芸術や作品を擁護するために、そのような保守・反動性はおそらく必要不可欠であるが、それでもこの映画愛の人物は、いくらなんでも偉くなり過ぎだし、あまりにも尊敬され過ぎている。が、これは映画愛の本人ではなくてその周囲や読者の(もちろんぼくも含めた)、反動の構えさえおぼつかぬ中途半端さ(愛の不足というよりも、あこがれるがゆえ恨み妬みをも突き抜けて生きようとする力の不足)に原因があるとも言える。