Amazon Primeエリック・ロメール「レネットとミラベル/四つの冒険」(1989年)を観る。面白い。もうロメールしか観れないね、映画はロメールに尽きるねと言いたくなる。最初から最後まで、物語を一々細かく書きたくなる。でもそれをしてもこの面白さはけっして伝わらない。

ミラベルという人物がいて、レネットという人物がいる。この二人が出会って、「四つの冒険」とタイトルにあるように、二人で夜明けのひとときを過ごしたり、カフェの給仕と揉めたり、物乞いに施しをしてさらに万引きのほう助をしたり、ギャラリーの画商との交渉を企んだり、いくつかの出来事が起こる。

思ったのが、まず何よりも、冒頭の出会いの場面でこの二人が出会うということが「映画」でなければ、それは不可能だよねと思う。

実際に、人は現実において、偶然誰かと出会うこともあるし、そのまま友達になることもあるだろう。しかしそれはけっして、この映画が示すようなものではないはずで、映画はいつでも、登場人物同士は最初から組み合わせの、片方と片方が出会うものだ。それがはじめから規定されている世界だ。

だからこの映画がというよりも、すべての映画は「映画」でなければ不可能なやり方で、出会いというものを表現するのだと思う。この作品は、そのことが隠されてないのだ。

登場人物には、外見があり、性格がある。登場人物が二人になることで、そこに関係の層がうまれ、同時に比較というか、相違の層がうまれる。人から人へ関係が生じ、理解があるいは誤解が生じ、出来事がさまざまな形態へと変動していく。

映画の登場人物を、出来るだけ登場人物のままに留め置く、間違っても感情を移入する容器にしないこと、そのために各登場人物たちの動きが、さまざまな条件のもとで物理的な感じを受けるようなものであるのを感じる。どこまでも自然の摂理にしたがっているので、あらゆる出来事に納得がいくのだが、あらゆる出来事が、すべて脆く儚い、たまたまそのようであったに過ぎないことにも思える。

そして、すべてがまったく何事でもない些細な出来事であったかのように、それらは過ぎ去ってしまい、映画も終わってしまう。