草の葉

ホン・サンス「草の葉」(2018年)。荘厳な交響楽が音楽としてたくさん使用されている。いつものホン・サンス的な二人の人物が向かい合っているショットなのに、ワーグナーとかが流れてるだけで、ヴィスコンティの映画みたいな感じになるのが面白い。

キム・ミニは、カフェの窓際の端の席で、ラップトップPCを開いて、ひたすらシナリオか小説のようなものを書いている。それを専業の仕事にしているわけではないけど、でもいつかは、そのようになりたい。

冒頭の場面はカフェで、二人の若い男女が向かい合って、何やらシリアスな話をしている。知り合いが自殺した、その責任はあなたにあるのじゃないかと、彼女は怒って彼に言う。彼は黙ってうつむく。

そんなやり取りを、ラップトップのキーボードを叩きながらキム・ミニは想像する。つまりその二人のやり取りは、キム・ミニが思い浮かべ執筆している、あるシチュエーションらしい。

冒頭にこの場面が置かれるだけで、それ以降すべて、この映画すべてが、もしかしてキム・ミニの想像の世界ではないかと、そのような気配というか、可能性というか、ある気掛かり、ある不自然さ、そのような感触が、この世界から消えることはない。もちろんあらゆる出来事がキム・ミニの想像の世界であるかのようには、まったく描かれてない。すべてはこの映画に映っている通りだ。生活に困っている俳優、その後輩、映画監督、キム・ミニの弟と彼女…。まったくいつもの通り、ホン・サンス的な冗長性に満ちた時間が流れていく。カフェに集う彼ら、一人で執筆を続けるキム・ミニ、二人で街を彷徨い、韓服を着てお互いを撮影し楽しんでる弟とその彼女…。

フェリーニ8 1/2」のホン・サンス版とも言えるように思った。ちょっと「いい話」「思わずグッと胸にこみあげるような切なさ」のあらわし方において、これは見事なものだ。現実と虚構の二層を扱うとか、それの行き来を示すとか、そうということではなくて、現実とも虚構とも判断のつかない何かに、分け隔てなく等しい態度で向かう姿(それは登場人物の姿でもあり、映画そのものの姿でもある)に、映画を観る者は「思わずグッと胸にこみあげるような切なさ」を感じさせられてしまうのではないか。

冒頭の男が、キム・ミニに話しかけ、彼女は曖昧に視線をそらす。さっき「こっちの席で一緒に呑もう」と誘ってくれた男が、タバコを喫いに外へ出る。空いた席に、招かれたキム・ミニが座ったのが見える。