アップリンク吉祥寺でビクトル・エリセ瞳をとじて」(2023年)を観る。そうなのか…。「永遠と一日」のアンゲロプロス、あるいは「さすらい」のヴェンダースなニュアンスも感じた。三時間弱も時間かけて、こういう映画なのか、、と思う。

まず1947年という時制が出てきて、そのあと1990年が短く示され、話はさらに2012年に移行する。物語の構造はそうなのだが、1947年は「映画内映画」の時間である。1990年にその映画を監督した主人公のミゲルも、主演を演じた友人のフリオも、「映画内映画」の登場人物とは別の時代を生きてきて、まだ若者だった60年代には共に海軍に所属してもいた。フリオの謎の失踪によって映画そのものが制作中止となってしまい、彼の消息は今もわからないままだ。しかし失踪事件の真相に牽引されてこの映画は進んでいるかのようで、そうではなく、そういった謎や時系列的展開を、この話は内側から溶かしてしまうようなところがあり、少なくとも客観的な事実を示そうとするのではなく、各登場人物が記憶する(あるいは記憶にない)、それぞれの想念が行き交う場として出来上がっている世界という感じがある。各出来事が、そのまま誰かによって思い起こされた何らかの想念のように感じられる。

ミゲルが次々と出会う人々。彼と対話相手とのあいだに流れている、ほとんど非現実的なというかまるで、映画に撮られるためだけにその場所に設置された対話であるかのようなこの不思議な触感はなんだろうか。顔のクローズアップのものすごい近さというだけでなく、人と人が久々に会うってこういうものだろうか…と思う。僕は自分が久々の誰かに会うなんて、あまり想像もつかない。今月は同窓会が重なったけど、そんなものではなく、こうして過去に再会するなんて、現実にはありえない。これは映画にしか起こりえないことだろうなと、アナ・トレントの顔を見ながら思う。

幸福とは歌を歌うことかも、とも思う。昔の思い出の歌を誰かと唱和する。そのような場面が幾たびも出てくる。歌うかね?ふつう…とも思うけど、歌う。ロケ地は実際にマドリードとかその近郊なのか知らないけど、あの海辺の、ミゲルの住まいのすばらしさはどうだろう。キャンピングカーにテント貼っただけの、粗末と言えば粗末な暮らしだけど、でもこんな風に毎日暮らしていけたらこれ以上の幸福はないのではと思わされるような生活だ。犬と一緒に、狭いけどきちんと整理されたキャンピングカー内のリビングと書き物をする書斎、夜空と海の音が聴こえるテラス、友人らと共に食事をしギターを弾いて楽しむ、幸福な夢のような時間。

ミゲルの生涯はすでに回想が済んでいるかのようだ。妻とは別れた。子供は早くに亡くした。古本屋で自著を見つけ、表紙裏にかつての恋人に宛てた献辞を見つけ、その人との再会も果たした。今の暮らしがあり、飼い犬がいて、隣人らとの付き合いがあり、畑の作物を手入れし、海に船をだして魚を獲りその日の午餐とする。インターネットもある。携帯電話もある。お金のためにテレビやマスコミの詮索に協力してしまったけど、そのことは後悔してる。貸し倉庫には過去の古いものが雑多に置かれている。彼の生涯と仕事があり、行き着いた先がここだとも言える。すくなくとも彼はいま、隣人らと生活を楽しみつつ、充実した毎日を送っているかのように見える。

これからの時間とこれまでの時間で、後者の割合が圧倒的に多くなってしまった年齢の者にとって、フリオのことはおそらくミゲルにとって最後まで残された心残りだ。ただしそれは解明したい「謎」ということではなくて、何か鏡に写したもうひとつの過去の自分の姿にも似た、今ももしそれに何かが映るのだとしたら、見ないでは済ますことのできないような何かだろうか。過去の切実さというか、昔のことなどもうどうでもいいと割り切って考えるわけにはいかない、なぜか可能なかぎり執拗に食い下がりたい、そんな思いに駆られる理由はどこにあるのか。

そして、すでに記憶を喪失しているフリオから、ミゲルは彼のなかの記憶を呼び起こそうと試み、彼の娘であるアナを呼び、さらには編集技師の友人をも呼び出して、かつて未完に終わった自作の断片を彼の前で上映する。この「映画内映画」が、本作の冒頭と終盤に位置づいているので、そのことで、三時間にもわたって見続けてきたミゲルらのこれまでがむしろ現実の重みを失くすのだ。この「映画内映画」が完成されるために、二十年あまりもの「現実」が利用され、この中盤へ挿入されたかのようだ。

老いたフリオの表情は終始ぽかんとしている。彼が我々と同じ記憶を共有しているようには見えない、あるいは我々の知らない謎を知っているようにも見えない。もとよりそんなことを期待するのが間違いではなかったのか。少なくとも今我々にとって、この映画を観ている以外の確かな事実はなく、それ以外にいったい我々がどんな記憶を共有し、同じ時間を共に生きただなんて言えるのか。