ザ・シネマメンバーズで、エリック・ロメール「海辺のポーリーヌ」(1983年)を観る。
ウソかもしれないことを悲しむのはやめよう。
その反対の事を信じよう。
そうすれば、二人とも幸せでしょ。
そうだね。
ポーリーヌとマリオンが最後に交わす言葉は、こんな感じだ。
ここでポーリーヌが知っていることとマリオンが知らないことの、ある種の皮肉味というか、おかしみが醸し出されてはいるのだけど、そのことよりも、結局は誰もが誰もの範囲でしか物事を知ってはいなくて、その範囲内で彼らや彼女らは始終ああしてお喋りして海辺をほっつき歩いている。
登場人物たちそれぞれの見ているもの、考えていること、好悪、思惑、疑いというものが、ここにはあるけど、その相容れなさがことさら強調されるわけでもないけど、何かが通じ合うとか以心伝心とか、そういうことも起こり得ない。
こんな男女がいて、こんなことがありましたとさ、といった語り口で、この物語は、なんてことがない。取るに足らない、後にはほとんど記憶にも残らないような、そういえば、そんなことあったね…とでも言って思い返すような、そんな些細なことに過ぎない。
誰もがきっと忘れてしまうような出来事、この世界の誰もが記憶から取りこぼすであろう場面、そういう場面はこの世におそらく無数にある。それは誰もの記憶から消えるのだから、存在しなくなるものだろうか。あるいはそうでもないのか。
ポーリーヌとマリオンが外で向かい合って話す場面。ポーリーヌの後ろには紫色のアジサイが満開になっている。この紫色をバックにしたポーリーヌの姿を見ているのはマリオンだろう。そしてマリオンをとらえた場面はポーリーヌが見たマリオンだろう。
でも、そうかもしれないが、そうではないのかもしれない。この紫色をバックにしたポーリーヌの姿を見ているのは、ポーリーヌでもマリオンでもなくて、我々だけなのかもしれない。しかし映画のなかの我々とは誰なのか。
この映画が残っているから、この場面が存在する、という事とも違う。おそらくこの出来事もこの場面も、もう消えている。にも関わらず、こうしてあらわれる。だからこれは、あらわれているのでもなく、消えているのでもない。