小説も映画も、本来おそらくはそうだと思うが、それは何かを伝えようとする意志であり、多様な出来事の織りなす多重奏であり、その複雑で繊細な織物であると同時に、どこかでジャーナリズムでもあり、ゴシップでもあり、現実の世界へのあてこすり、冷笑、皮肉でもあり、誰かの立ち位置の説明、言い訳でもあり、それらのどれにもあてはまらない、取るに足りない、泡のような文言たちの連なりでもある。そういうのをひとまとめに出来る、もっとも好ましいフォーマットが、小説であり映画であるのだろう。少なくともかつてはそうだったのだろう。

それはジャンル出来時点において要素としてあらかじめ含まれているというか、それらをごった煮にした、新しい大衆料理のようなものとして生まれた。はじめから明解な規定があるわけではない。それを含まなければジャンルから零れ落ちるとか、そんな上位規定は存在しない。誰もが勝手にはじめればいい。胡散臭い人間も多いけど、所詮はどう作ってもいい、誰もが適当に何を名乗ってもかまわない、偉そうにしても適当でもいい、しかし美味いか不味いかは常に現場において判断される、そんなラーメンとかホットドッグみたいなものだったろう。

古い映画ばかり観ていると、洗練の度合いとか作家性にばかり目が行きがちで、本来の雑多な感じ、作品自体のギトギトした感じを、つい忘れがちになる。作品自体のギトギト感とは、そのままそれを受け取るたった今の人々のギトギト感であり、こんな濃いスープをみんな好むのか…という事実を知るということでもある。そういうのを思い出すためにも、新作を観るのは大事だ。別にもう、今さら新しい映画なんて観なくてもかまわないという思いは少なからずあるけど、それに居直るのは良くない。というか、古い映画なんて、そんなものをことさら有難がるような態度がどこか不健全だと思うくらいじゃないといけない。