ジョナス・メカス「ウォールデン」をDVDで観る。最初から、ぎっしりと映画。撮影された被写体が光を浴びて、光を反射させて、木漏れ日のなかを動き回り、水の流れ、木々の動き、人々の行き来、車の往来、ヘッドライトの光、雪の白の光と黒の強烈なコントラスト、そのすべてがよろこびで、このとき一度限りのかけがえのない出来事で、そうでありながら以後何度でも反復される永遠のくりかえしでもある。これは映画で、同時にこれは日記で、そもそも日記とは何か、これはその問いに対するひとつの答えだろう。日付で区切られているわけでもないし、作者の考えが言葉で記録されているわけでもないが、そのときのこと一回限りが、これ以上なく強烈に刻まれている。撮影された出来事一つ一つを驚きながらて受け止めている視線の力が、それを一つの日記たらしめている。
リール3の後半およびリール5の音楽はどちらもおそらくベルベット・アンダーグラウンドっぽいけど、かなりカッコいい。後者の曲はおそらくSister Rayじゃないかと思うが、あの純度百%のノイズでみんな身体を揺らして踊ってるなんて凄すぎる(というかヤバい)。しかしウォーホルはいつも、べつに楽しそうではない人だ、壁際に突っ立って、ただ黙ってる、そんな感じだ。ニューヨークはしかし木々の緑色がけっこう多くて、マンハッタンは繁華街だが、ちょっと移動するだけでいきなりとんでもない田舎の景色にもなる。猫も犬も、けっこういる。たぶん冬から春への季節の変わり目が、二回(二年分?)捉えられていると思うのだが、泥に汚れつつ路面や屋根を覆う雪の美しさと、晴れた日の陽の透明さ、春の緑の深さ、さらに人々の着ている服、スカートや帽子や靴などの赤の強さが、圧倒的にうつくしく…まあ、言わずもがなだ。誰が見たってそう思うだろう。60年代のニューヨークという区切り前提で、その風景がすばらしいということではない。時や場所がどうであれ、そんなことはどうでも良くて、何しろその時、その今のこれ!がすばらしいということ。三時間がっつり見ても、五分か十分だけ見てもいい。極端なことを言えば他の誰かの映像でもかまわない。とにかく、いつかどこかの誰かによって撮影されたという、その驚きだと。そしてそういうもの、誰に見られるわけでもないが、誰かによって留め置かれた、いつかどこかの記録は今現在、本作品以外にも、様々なジャンルを越えてたくさん存在するだろう。逆に言えば、今やこういう映像の、実験性とか歴史とかの枠組みをとくに気にせず、内容にも驚かず距離感も感じずに、ふつうに好ましいものとして受け止められる人も多いことだろう。だとしたら、それは昔より今の方が良くなったと言える数少ない物事のうちの一つではないだろうか。
ちなみに、ウォーホルに言わせるとジョナスメカスは、それこそただひたすら修道士のように映画を愛してるだけみたいな人。
彼はあらゆることにまじめな、笑うときさえまじめに笑う、そんなタイプだった。
(中略)
ジョナスは映画にたいして人生にたいしてと同様にひたむきだった。彼は六〇年代でぼくが思いつくかぎりでいちばん非ポップな人間だった。ずいぶんとインテリだった。だけどまたすぐれたオーガナイザーでもあって、短い映画をつくる連中に上映の場をあたえていたのだった。