身体的な苦痛に対して、泣いたり悲鳴を上げたりする人もいれば、ただひたすらじっと耐える人もいるという話を、数日前に書いたけど、それは文章にも、似たところはあるのかもしれないと思った。

自分にそれはあてはまる気がするのだが、なんというか、やせ我慢気質というか、あまり開陳するのはよろしくない的な、どこかに過度な抑制がある、そういう文章はある。本来もっと抑制が解かれるべき文章ということではなくて、元々そういう文章として出来てしまっている。

こうしてネットに何かを書いてアップするという、いわば露呈の行為に対して、文自体に抑制が働くのは当然なのだが、人によってそのバランスに幅がある。

という話とは直接つながらないのだが、子供の頃に、外出の支度をしている母親あるいは父親が、きちんとした洋服に着替えているとき、装いを外向きに変えているとき、父親は髪に櫛をあてていて、母親は化粧台に向かっている。

出掛ける直前の、家の中のあの雰囲気。家の中のことを、こうして外から隠すのだと思った。きちんとした服装で外へ出かけるとは、つまり家の中を外へ出さない、きちんと片づける。

そのへんのバランス感覚が人によって違うのは子供の頃から感じていた。他所の家と自分の家は違う。距離感とか、親密さとかが違う。

その感覚は死の直前まで持ち越すのだろうなと最近思う。死を前にしたときに、どんな装いで、どんな風に鏡で自分をたしかめたうえで「外出」の準備をするのか。