予定

木曜日の夜までに片づけたいことがあるけど、それを片付ける前提になる条件が固まるのは金曜日だ。だから仮の前提に基づいて準備しなければならない。で、その条件を金曜日に確認して、予想通りなら準備内容の提出で終わりだが、予想からズレていたら修正しなければならない。ただし金曜日は修正する時間を取れない、金曜日は確認だけでせいいっぱいだろう。だとすれば何をどのように修正しなければいけないか、それだけでも明確にしておく必要があるのが金曜日だ。そして本格的な修正に取り掛かるのが、週明けの月曜日だ。納期は火曜日、しかし火曜日も別件でまったく時間を取れないはず。だから金曜日の確認事項を元にして、なんとしてでも月曜日のうちに修正を終わらせなければならない。かつ、そんな計画のはざまに位置する土曜日と日曜日は、それらを完全に忘却して、なんとしてでも休まなければならない。土曜日と日曜日は、なんとしてでも休んでダラダラとしたり遊びに行ったり買い物したり明るいうちから飲酒したりしなければならない。

マーチ

朝からかなり強い雨が降っていたようだったけど、出掛ける直前に晴れて太陽の光がさんさんと降り注ぎ始めた。水にぬれた路面や植え込みの緑や木々が猛烈に光を反射させはじめて光の洪水みたいになっていた。夏のはじまりですね…という感じ。

小中学校はもう通常通りで、子供たちもふつうに学校へ通っているのだろうが、土日の部活動はまだやってないのか。社会人のサッカーチームや草野球のチームは、いつも通り学校や公園のグラウンドに集まらないのだろうか。休日の日中、買い物の途中で中学校の脇を通るときに校舎内外が静かで、吹奏楽部んの練習する音が聴こえてこないと、なんとなく物足りなくてつまらない。

鼓笛隊がマーチのリズムで行進してくる。チューバとホルンが、低音を繰り返しながら膝を高く上げて揃って歩いてくる。トランペットは幼い顔の頬っぺたを膨らませて真剣なまなざしで虚空を見ながら主旋律を奏でる。音がだんだん近づいてきた。近所の人達がおもてに出て、手拍子で送る。楽団がその前を横切って、ゆっくりと進む。買い物袋をぶらさげて並んで突っ立っている僕と妻の目の前を、バンドが足取り軽やかに通り過ぎていく。そして後ろ姿が、少しずつ遠ざかる。音がだんだん小さくなって、やがて聴こえなくなる。しかし消え去ることはなく、かすかな音が、夕方の空に溶けることなくいつまでも響いている。

家で鰺

土日や休みの日に、家でぼけーっと過ごすことが多い。昔からそうだけど最近とくに。何の予定もなく何もせず、無為に過ごしているのが好きになってきた。どこかへ出掛ける気持ちもあるが、家でじっとしているのも同じくらい魅力的だ。どちらも楽しいことだ。家で積極的に何かしたいというわけでもなく、ここではないどこかを頭に思いめぐらすことなく、ほとんどの器官を休めたまま、オフラインで過ごしているだけの状態がいいのだ。午前中から午後にかけて、テレビ番組は何かが小さく騒がしく続いているけど、あれは、時計の変わりになってしまうところがダメだ。つまらない外出もそうだが、時計に駆られている状態を避けたい。スタンプラリーに参加したくない。参加してもべつにかまわないのだが、家にいたっていい。電源を切っていても、まだ意識はある。

ふたたび、鰺を二尾買ってきて三枚おろしにした。なんか先週よりも、下手になってないか。まだ雑な気の持ち方をして良い時期ではないぞと気持ちを入れ替えて、心して掛かる。

包丁に慣れるというか、鰺に慣れてくる。その重みと手触りに馴染みが出てくる。身を持った感じ、頭部の感じ、はらわたの感じ、まな板に置いた感じ。あとはなるべく、それを手で感じずに、触感が最小限で、感覚だけで進めるように…

出来上がるものは、あいかわらず刺身となめろうとあら汁ばかりだけど、自分で塩して少し寝かせて、自家製干物にしても良いのだ。そう考えると、また少し期待の心が頭をもたげてくる。

部屋

食器を片付けて散らばった本や何かを整理して、電気を消すと部屋は暗くなる。暗くなった部屋が沈黙したままで、僕がそこから出ていこうとするのを、静かに待っているような気配をたたえる。そんな部屋の様子を僕はしばらく--と言っても数秒かそこらだと思うが--じっと眺めていることがある。部屋の主が出て行った後の部屋が、よけいにその主の雰囲気をあらわしているような気がするからでもあるし、主とはぜんぜん別の部屋そのものがそこに佇む気配を感じられる気がするからでもある。

高校生の頃から、同じように自分の部屋をじっと見ていることがあった。机の上の様子、本棚、椅子の向き、床に置きっぱなしの冊子や紙片、仕事が遅くなって、会社を出る最後の一人が自分だったときもそうだった。照明を落として施錠する前に、自分のデスク周辺をしげしげと眺める。ここで働いている人がいるのだと思う。ここに住んでいた、暮らしていた人がいる。あるいは、誰もいなかった、ずっとこのまま、沈黙と静止とともに、この場所があり続けた、それを感じる。

階級闘争

マルクスエンゲルスの『共産党宣言』(1848年)においては「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と規定され、階級闘争は社会発展の原動力として位置づけられている。(wikipedia"階級闘争"より)

資本主義社会においてプロレタリアートであるならば、階級闘争の心構えを忘れてはいけないという発想は、これまでの自分には無かった。しかしそれは、やはり必要なことのようなのだ。ことに新自由主義が蔓延してしまった現状においては、ますます必要なことのようなのだ。

デヴィッド・ハーヴェイという、英米で活躍しているマルクス主義者の社会学者がいます。日本でも多くの翻訳書が出ていますが、彼は新自由主義について「これは資本家階級の側からの階級闘争なのだ」「持たざる者から持つ者への逆の再分配なのだ」と述べています。」―『武器としての「資本論」』白井 聡著

デモ、組合、選挙、暴動…階級闘争なんて、かつて成功したためしがないと思っていたが、逆のパターンでは、見事に仕掛けられて喰らっていた、やられていたということなのか。

闘争というと、どうしてもある人格に対するアクションを想定せざるをえないが、資本主義における階級闘争とは「人格」に対する攻撃ではない。人間を消してもシステムには影響がない。だからそれは、本来あるべき権利の主張であり要請だ。新自由主義化が二十年以上かけて成功させつつあるかのように見えるもの(非正規化、規制緩和、流動化による労働者への分配の変動、変容する労働内容と生活の新たな価値基準を労働者自身にゆっくりと内面化させ、無意識に納得させてしまうこと)と同じように、ゆっくりと時間をかけて闘争を仕掛けていき、再々分配をうながさなければならないということになる。それは一見、闘争には見えない取り組みだ。たとえば、保坂和志の書く小説。やはり芸術というものは、少なくとも近代においては、階級闘争の一形式として(も)存在するのだろうか。

本源的蓄積

もし僕が中世ロシアの農奴の家に生まれて、そして死んだとしたら、その人生は幸せだっただろうか。(むしろ、じつは僕は本質的には農奴では?)

土地と人間の労働力が、商品として扱えるようになり、世の中は変動する。金は人を、いやがおうにも自由にする。金が自由を強制する。金こそが、私の出自、出身地、家、親族、あるいは国籍、人種、性別から、私を開放する。そして私はそこに、一介の労働力である私を見いだす。労働力という商品である私は私を売る。私には私の労働力を売る自由ならびに労働する自由がある。今までもこれからも、ずっと自由で、この自由から逃げることはできない。

ロシアの農奴は生まれ育った地を追われて、混沌とした社会へ彷徨い歩み出す。「桜の園」のラネーフスカヤは新しい時代に付いていけず、先祖代々の土地をついに売り渡すことになる。買ったのはもともと自分らの農奴だった商人ロパーヒンだ。ロパーヒンは、ロシア革命の後、どうなったのだろうか…。

子供の頃に私たちの村にやってきて、馬上からこちらを見下ろしていた領主様の優しそうな眼差しを思い出す。

Birthday

有給取得日、自宅に一人。購入した出刃包丁が、午前中のうちに届いた。さっそくスーパーの鮮魚売り場へ行き、鰺を二尾買って、まずは一尾を捌いてみることに。あらかじめyoutubeの三枚おろしの映像をしっかりと観て、充分にイメージを脳内にふくらませたうえで、いざ始める。

まずうろこを取る、が、大して取れない。はじめから取ってあるのでは?と思うくらい。本来もっと取れるはずなのか?

続いてぜいごを取る。これは簡単。しかし、順序的にはぜいごを取ってからうろこを取った方がいいと思う。うろこも再度取る。

頭を落とす。喉元にすっと刃を入れて、つづいてエラびれの下から頭の上めがけて斜めに切り込み、裏を返して同じように切り込み、包丁の付け根あたりに力を入れてざくっと背骨を切る。まな板も包丁も濃い血液にまみれる。まあまあの切り口になった。

はらわたを取る。指を入れると、まずけっこう大きな骨に当たり、これを抜き取ってしまうべきか悩むが、とりあえず放置。どこまでが内蔵がわからないが、とにかく取れるものは取る。血合いに包丁を入れる。ここまで、やはりなんとなく、作業がもたもたしてる気がする。手も魚の身も血と脂にまみれてしまったような気がする。水道の水を出して、血合いを水で洗い流すが、そのときに魚の表面がうすく白く濁るように見えるのは、身の脂が変色しているからか。あまり美味そうには思われない。

ペーパーで水分を取る。たぶん、しっかり取らないとダメ。中途半端に水で濡れてるような魚の身がいちばん見た目が良くない。見た目が良くないと、自分で触っていて気分悪いし、うんざりする。まな板も包丁も洗って、しっかりと水分を拭きとる。しかし今更ながら、なんという青魚の脂の強さ、そして魚特有の生臭さだ。洗剤を使って、かなりしっかりと手を洗ったのに、魚の匂いがまるで落ちない。まだ始まったばかりなのに、すでにたくさん食べてしまったかのような気分に近い。これはこれで仕方がない。そういうものだ。

いよいよ三枚におろす。セオリー通りに、意外とすんなり上手く行く。続いて腹骨をとる。包丁を傾けて、薄くそぎ取るように。これで良いのかどうかわからない。見た目としては、良いのだと思う。さらに骨抜きで血合骨も取る。これもリズミカルかつスピーディーを心がける。が、やはりどうも自分で身を細かくぼろぼろと崩しているような気になってくる。

最後に皮を引いて取る。取り始めは簡単だ。誰でも引っ張ることが出来る…が、腹側の身が皮に引っ付いたまま、けっこう大きく剥がれてしまった。これは勿体ない。別途取り分けた。しかし見た目は完全に失敗。食べる分には支障ないけど、三枚おろしではなくて3.2枚おろしくらいになってしまった。

時間は午前10:30。とりあえず刺身にして食べた。仕方ないので缶ビールも開けた。食べるとたしかに美味しい。しかしまな板も包丁も布巾も手もぜんぶ鰺の匂いが浸み込んだようで、やや辟易する。

食べ終わって、しばし途方にくれる。鰺はあと一尾ある。夕食の用意のときに再度チャレンジするつもり。アラは捨ててしまったが、魚を一尾買うというのは身だけではなく他の部位も有効利用できることが利点なわけだから、一緒にあら汁も作ろうと思う。フライか天ぷらも考えたが、なんか面倒くさい気もする。

なんか、手持無沙汰だ。とりあえず、ジムに行くことにした。水泳しよう。平日の昼前なら空いてるだろうと見込んで。

プールは、さほど空いてなかった。というか何とかレッスン中で、コースの三分の二に、水着の老若男女が音楽とトレーナーの掛け声に合わせて手足を動かしているのだ。フリーで泳げるのは二コースのみ、しかしそこで泳いでるのは一人くらいしかいなかったので、まあそこそこ快適に泳げた。欲を言えばコースに無人を期待したのだが、そう上手くは行かない。

午後一時を過ぎた。ジムを出る。日差しが強い。夏日ではないか。どうしよう、今、何がのみたいですか?はい、スパークリングワインです。でも、これまで何十回も思ったことだけど、我が地元の駅周辺で、日中まだ明るい時間に、ワインをちょっと軽く飲むだけみたいな、そんな利用が可能な店はじつに限られる。イタリアンっぽいのやフレンチっぽい店でランチ時間に営業してるところは、もちろんある。しかしどの店も、なんとなく、うーん…そうじゃないのだ。

隣駅まで行ってみる。すでにもう、当初の飲みたい気持ちは消えてしまった。駅周辺を散歩する。ついでだと思って、反対方向の隣駅にも行って、駅周辺を散歩。平日の昼間というのは、誰もがみんな目的をもって歩いているものだと思う。夜、ふらふら寄る辺なく時間を持て余してるような人はいない。いや本当は夜だってそんな人は少ないのかもしれないが。

無駄な時間を費やしてふたたび最寄り駅に戻る。夕食を決めよう、食材を買おう、あと酒も買おうと思う。スーパーで再び買い物。鰺をさらにもう一尾買い、副菜もいくつか買う。いつも行く酒屋の開店は15:00だ。時計を見ると14:40で、しばらく待つつもりで店の向かいにある居酒屋に入る。この店に入ったのは何年ぶりだろうか。まさに、"おばちゃん"と呼ばれるにふさわしい雰囲気の女性が、三人で切り盛りしているのは以前の通りだ。店内は、僕一人だった。

生ビールを傾けながら、"おばちゃん"達三人のかしましい会話を聞くともなく聞いている。誰それさんがまた遅刻したのよ、あたし何度も言ったのよ、遅刻しないでねって、でも、すいませんだなんて、それだけよ、あらそう言っただけでもいいわよ、あたしのときなんか何も言わないの、ねーすごい人よねーあたしもう疲れちゃうのよああいう人、ほんとよねー。

15:00を過ぎて、酒屋のシャッターが上がったのが見えた。会計をお願いしたら、生ビールと、冷奴と、あとグラス小のおかわりで、三万と…とか何とか、いきなりぶち込んでこられて、うわ、めんどくさいぞと一瞬思ったが、気を取り直して、え?高!すごい高いじゃないですか!と返したら、"おばちゃん"大喜びでけらけらと笑う。なんでねえ?ビールとそれだけで三万って、ねー?と、三人揃っていつまでも盛り上がっているので、こちらもやむなく、いやいや!!そんなにお金ないから!ひどいなあー!と精一杯応じる。千円と少し支払って、ああー!安くてよかった!と言って、ごちそうさまー!と言って、店を出て、向かいの酒屋に入る。

酒屋でやや高めのシャンパーニュを買う。

なぜなら、今日は僕の誕生日なのです。さっきの"おばちゃん"達から、サプライズで出し抜けに祝われたような錯覚をおぼえる。

誕生日だから、自分で有給とって、自分で食材買って、酒も買って、自分で調理する、そんな一日です。まあ、誕生日だから仕事休む理由も無いのだが、有給消化はこなさないと行けないので。

帰宅後、ふたたび鰺に取り掛かる。二尾目。午前中よりも、出来が悪い。集中力が切れているというか、こんなもんだろうと甘く見た工程がイマイチ上手く行ってない。

三尾目も続けて取り掛かる。とりわけ上手くいかないのが皮を引く工程。三回やって三回とも失敗してる。前工程に問題があるのか。いずれにせよ、やはりまだまだ練習が必要。練習したら…鯖でも鯛でも平目でも、なんでも捌けるようになるかな!?なるといいですね。

妻が仕事から帰宅する。平日にしては早めの夕食。食べ終わったら眠くなって、そのまま寝た。