六対四

柿ピーは、配分としては七対三はぜったいに認められず、従来の六対四が遵守されねばならない。この点、先だって亀田製菓の為した配分変更がもたらした衝撃は多大であり、少なくとも自身を含む一部消費者にとっては未だ是認し難い状況であり、何らかの施策是正対策が検討されるべきであるという認識である。

ところでミックス・ナッツにジャイアントコーンが含まれていると不機嫌になる人がいるらしい。クルミも嫌だが、ジャイアントコーンよりはマシだとうそぶく向きさえいるのと噂である。たとえば落花生を安っぽく揚げたやつが入ってたりすると、ああ水増し感ありだなあ…とか思うのはわかるけど、ジャイアントコーンはぜんぜん許せる。あれの何が気に入らないのか、そう言う人に面と向かって問いただしたいほどだ。

ナッツ類だとアーモンドやカシューナッツは主役級の別枠として、マカデミアナッツ、ピスタチオあたりが人気ということになるのだろうか。もちろんそれはそれで素晴らしいけど、それだけがミックス・ナッツの魅力ではないはず。さらに言えば、柿ピーは世紀の大発明と言って良い、すばらしい組み合わせ。ただし六対四は遵守で。

バジル

水栽培中のバジルは成長著しくて、一度に収穫しきれないほどたくさんの葉を茂らせていて、一回の食事で使いたいバジルの量など、多くても大きめの葉が一茎分についてる数葉くらいなので、それだけを摘み取ると、残りは相変わらずぐんぐん成長するし、摘み取った茎の箇所が空く分、ほかの茎の成長が早まるくらいで、もはや最近は我が自宅においてバジルに限ってであれば完全に自給自足が実現出来ている状態であった。しかしそれも今日までとなった。ジェノベーゼのソースにするので、今あるバジルすべてを使いたいと妻が言う。なるほどそれはいいね、さっそく準備しようと応えたものの、もりもりと生え伸びているバジルたちを見やると、一抹のかなしみをおぼえないこともなかった。というのはウソで、ばっさりと刈り取って、適度にばらして、あとはフードプロセッサーでガーっとなって終了である。これだけ盛大に分量を入れるのは気持ちがいい、ああなんていい香りだろうかと思う。

巡る

体温よりも気温の方が、高いような感じがする。サウナのようなもわーっとした空気の中を歩く。あの店がなくなったとか、この建物が消えたとか、また何か新しいのが出来そうとか、そんな箇所がいくつか目につく。自宅からあるいて数分の場所と、図書館の近くと、ほかにもいくつか、それまで長いことあった家が取り壊されて更地になって、そのあとたちまち別の建物を建て始めた。どの家もかなりの高齢者が住んでいた一軒家だったのだが、何があったのかはわからないけど、なにしろ機を見て、始めたらあっという間に、まっさらに失くして、すぐ当たり前のように次を建てる、その素早さには感心する。住まいを賃貸だの分譲だの言うけど、どちらでも一緒ではないか、次から次へと移り変わるだけだと思う。

枝豆を家で茹でて、強めに塩をして、ビールと一緒に供すると、ああ夏だな、、と思う。窓を開けていると、外から入って来る風が快適だ。

火急

ところで、自分は不要不急という言葉の意味を、今でも頭の中できちんと整理把握できてない。その言葉が、必要という意味なのか不必要という意味なのかを、いまだにうっかり取り違えそうになる。わかっているつもりでも、少し気が緩むと、まるで右と左がわからなくなるかのように、迷いが出て言いよどむ。どうも根底ではなぜか「重要・必要」の意味ニュアンスだと思っているらしいのだ。「誰が何と言おうが、人間にとって音楽はぜったいに不要不急だと僕は思う」…とか、勇ましい口調で言ってやりたくなる。

屋上

電車の窓から外を見ている。高架を走る電車は、川を渡ったあと、街並みを見下ろす高さを駅へと向かって走る。密集する住宅の屋根が連なっている。低層のビルや、屋上のある家には端に梯子があったり物干し竿があったり、洗濯物が風に揺れているのも見える。屋上というものが、どのくらいあるのだろうと思って、それを意識して見てみると、ビルの上というのは、かならずしも屋上として人が立ち入れるようになってるわけではない。単に排気用か設備系の機械が並んでるだけだったり、資材が置かれているだけだったりする。駅に近づいて、建物の密集度が増してきて、どの建物も人間と食物のはなつ油と煙に燻されたみたいな色合いになってきて、ぎっしりと並び建つ一階から三階まで全部居酒屋が入ってるビルの屋上は、一応は屋上として利用できるみたいだけど、ふだん人が出入りしてる雰囲気はなくて、モノが長年置かれていた下のカーペットがそこだけ色が劣化してないみたいに、ただ灰色の中間地帯のように残されているだけのようで、そもそも電車からそれが見えてしまうところに、ある種好ましくもあるようなわきの甘さを感じさせる。願わくばあれらの屋上のどれかに、一人でもいいから誰かがいるのが、電車のなかから見えたらいいのにと、覗き魔のような視線で外の風景を見ている。この覗き魔は人の暮らす住居の部屋の中を見たいわけではなくて、周囲の景色構成から切り出されたかのような灰色の屋上の中間地帯に立っている、何をしたいのかよくわからない人物の様子をのぞきたいと思っている。

共鳴

自室で、それなりに大きな音で音楽を聴いているのは楽しい。だがイヤホンで聴くのが、最近はどうも気が乗らないというか、聴いていてもあまり楽しくないと感じがちだ。同じ曲でもイヤホンで聴くとかなり違って聴こえるものだが、その違いが、新鮮さや面白さに感じられないことが最近多い。生まれてはじめてイヤホンやヘッドフォンで音楽を聴いたときの、頭の中に音響が立体的に再現されたときの感激は今でもおぼえている気がするけど、長年なじんだ自分の頭の容量というか、音を反響させるうつわのサイズ感そのものに飽きたのかもしれない。それにイヤホンで音楽を聴いているというのは、移動中とか電車の中とか、大抵何か別のことをしながら聴いているので、そういう聴き方に飽きてきたところもある。そもそも移動や電車内という体験と音楽との混ざり合いこそが面白かったのだが、そう感じる部分が減ってきたのだと思う。

七〇年代へ

大江健三郎万延元年のフットボール」の終盤、鷹四が自殺を遂げてから、ラストへいたるまでの展開の、急速に雲が晴れるかのような、不思議な明るさが挿してくるあの感じは、いったい何だろうか。それがどうも自分には、これはかつて実際に自分も体験した、はるか昔の自分の記憶の片隅にあって保管されている明るさだったと錯覚したくなるようなたぐいの明るさなのだ。

その物語が終わったあと、蜜三郎と妻の菜採子は新しい生活をはじめるために谷間を出ていき、そしてもう二度と谷間へは戻ってこないだろう。蜜三郎は故郷を喪って、弟も死に、養母ジンの寿命もおそらくもう長くはない。彼らはもはや、あらたな場所であらたな生活をはじめるしかない、時代の大きな変化のうねりの先端にいる。このあと、時代としては大学紛争をはじめとする混沌もありつつ、すでにはじまった高度経済成長が爛熟するであろう七十年代だ。安田講堂だの連合赤軍だの三島由紀夫だののあと、何もないまっ平な地平があらわれる。そんなときに自分は生まれて、まだものごころのつくかつかないかの時期に、その光を自分の目で見ているはずなのだ。

これこそがあの光で、あの明るさなのかと、読んでいて思いたくなるのだ。それは自分がというよりも、むしろまだ若かった自分の父と母が、新生活をはじめたなかで日々感じていた新鮮さだったようにも思うが、なにしろ何もないまっ平な埃っぽい地平に、あの時代の若い人々が、これからの生活をはじめたのだなあと、それでこの僕も、ほどなくして生まれて、その光を身体に受け止めたのではないか…と。