VHSで、アルノー・デプレシャン「そして僕は恋をする」(1996年)を観る。はじめて観たと思っていたけど、そんなことなかった。登場人物たちが次々と出てくる序盤で、うわ、これか!!と思った。始まるやいなや、何十年も封印されていた箱の蓋を、間違えて開けてしまった感というか、うわ…これは、かつて観ることのできなかった、観るのを拒否したかった、居心地の悪いアンビヴァレンツの記憶の揺り戻しがすごかった。これは自分にとってそんな作品であり、再生されたものを見て、もはやすっかり忘れていた(無かったことになっていた)過去が、ついに呼び起こされたのをぼんやりと認めるほかなかった。

もちろんそれは僕個人の勝手な思いに過ぎないのだが、あえてその主観を優先で書かせてもらえるなら、かつてまともに観るのを拒否したくなった作品を、今こうして冷静に「映画」として観ることができていて、しかしそれだけのために、この数十年という膨大な時間が必要だったのかと、半ば呆れ半ば寂しいような気持になった。そして、あらためて言えることとして、この作品は素晴らしい。

大学の非常勤講師で、論文を書かぬまま五年も足踏みしてるポール(マチュー・アマルリック)は二十九歳である。ああ嫌だな、自己防衛本能強すぎで、優柔不断で、自らが傷付くのを過度におそれる、この若さ、この年代の嫌なところを、一身に背負っている感じだ。

で、こういう人物が、狭いといえば狭い交友関係のなかで、本来目指されるべきステップアップとか、業界への足掛かりとか、誰それに気に入られるとか嫌われるとか、そういうことを一々友人や女友達らから、批評・批判され、うっすらと他人の眼差しで眺められている感じ。

この空気が、昔の自分には地獄級に耐えがたかった。こんな不快な映画があるだろうかと思ったものだ。各登場人物たちとの関係や、それぞれの人物の思惑や苛立ちや噂話など、最初のジャン=ジャックの家でのパーティー場面はひじょうに面白いのだけど、しかしこの狭い家の中に何人もの人がいっぱい、押し合い圧し合いで集まって、皆が酒のグラス持ってふらふらする、あー!如何にも二、三十代の若者の集うパーティーの匂いで、こういうの、最高に嫌いだったな!と、当時の苛立ちが、埃をかぶったまま丸ごとよみがえってきて、色々思いは巡り、もはやあまりにもなつかしい……。

大学講師していて、論文を書きあぐねていて、色々とモラトリアムで、彼女と上手くいかなくて、他の女と揉めて…という、こういう人物を体現する、マチュー・アマルリックという俳優をおそらく僕はこれで認知したし、その後もこのイメージがずっと抜けない。こういうやつなんだよと思ってイライラする。その後ウェス・アンダーソン作品他でも多く見かけるけど、最近のそれとこれとは別物だと思っている。

大体この人たち皆「リア充」じゃないかと(はじめて観た当時、そんな言葉はなかったけど)。悩み苦しみ藻掻きながらも、まるで「引きこもり感」とか「自閉感」を持ってないじゃないか。狭いコミュニティのなかでくっついたり離れたり、トレンディドラマかよ、そんなのはおかしいじゃないかと、当時自分が感じた反発の内訳は、簡単に言えばそういうことで、その程度のことに過ぎないのだが、でも世の中はあれから、ある意味で自分の思ったとおり「引きこもり感」と「自閉感」を、より強めたのだなとも思う。それはそれで、わかいやすい変化ではあり、けっして面白いことではなかったなと。

それにしてもポールの恋人エステル(エマニュエル・ドゥボス)は最初一見、子供じみた鬱陶しい女と思いきや、おそらく観る者の心をもっとも引き付けうるような存在感を示しはじめるのであった。それはこの登場人物の行動や仕草や言葉がというよりも、この登場人物にあたる光の美しさによってではないかと思われる。最初にポールから別れ話を切り出されたときの室内光の美しさにしろ、試験を受けに会場へ出向く場面にしろ、最後の「生理止まったかも」の一連のシーンにしろ、この、ちょっと顎下半分が出っ張ったような顔の、どうにも子供っぽくて頼りない感じだった女性が、見る見るうちに魅力的に、すっときれいな孤独感をたたえた「大人の人物」になっていく過程を、黙って見守るだけみたいな気持ちにさせられるのだ。

でも、昔はじつに最悪だと思いましたけどね。最悪と言えばヴァレリー(ジャンヌ・バリバール)ももちろんそうで「こんな私を何とかしてよ」的な、あの開き直った態度とか、じつにありえない、どこか遠くに連れて行ってそのまま置き去りにすればいいのに、とか思ったものでした。まあそれを聞いてるポールのグダグダな対応も最悪で、それがまた身につまされるというか、自分に批判の矛先が向いてるように感じてさらに逆上したくなったりもしたのだが…。

ただエステルにせよ、ポールにせよ、この映画は仲間内でつるんでいるところから、まがりなりにも手探りで抜け出していく(そうせざるをえない)人に対して、ある魅力的な光を当てようとはしているのだと思う。それは自力とか自分の意志で物事を決めることの称揚とかとはちょっと違う。たぶん自発性とか意志ではない。誰もが何も変わらないと言えば変わらないし、おそらく「大人になる」ことは立派なことでも良いことでもない。それは単に、効率的であることに過ぎない。合理優先で閉鎖することに過ぎない。ポールは別に、最初から最後までそのままなのだが。彼は最後に、シルヴィアからの言葉によって「浄化」されるのだ。

ナタンはポールの友人で「いいやつ」であるが、彼はポールの元カノであるシルヴィアの今の交際相手でもある。だから微妙と言えば微妙な関係で、それをお互いに意識してはいる。しかしそれがあるからこそ、ナタンとポールは互いに紳士的な距離感を保っていられるのだ。よく考えたらナタンはポールを咎めたり反対したりはしないのだ。親身になって相談にのる、という感じでもあるけど微妙にそうではない。つねに無難な答えを言い続けてるだけとも言える。でも「いいやつ」って、要するにそういう感じな人のことを言うのではないのか。そしてもちろん、それは悪いことではない。そういうのこそ「やさしさ」だ、とも言える。(で、そういう感じも嫌いだった。昔は。)

そしてシルヴィア。あらためて思った(思い出させられた)けど、ほんとうに嫌な目つきで、他人を見る女だよな。ポールの心は、つねに彼女に見透かされている。彼女は常にポールの一枚上手だ。シルヴィア、美しくて、そしてまさに、そういう目をした女なのだ。映画を観ているはずなのに、こういう登場人物から自分を「観られる」感覚。それは耐えがたいものだ。

シルヴィアって辛辣だとつくづく思う。別に意地悪なわけではないし、彼女もそれなりに困っているのかもしれない。でも偶然出会うたびに、何こいつ、みたいな、あの目で見られるのだ。いくらなんでも、辛すぎないか。また傍らのナタンの「いいやつ」感が、それに輪をかけてキツイのだ。そこで二人きりにさせますか、というプールサイドでの出来事。果たしてポールは、あろうことか更衣室で着替え中の彼女の裸体を見る。そのときのシルヴィアの態度。まるで動じず、恐れもせず、じっとあの目でポールを見つめつつ、ゆっくりとうずくまる。ポールは絶句する、というかポールとシルヴィアが互いにあのとき何を思ったのか。これまで互いの裸体を見たことがなかったわけではなかったろうけど、それにしても……。(本作でシルヴィアら女性たちは、うずくまる格好でたびたびヌードを画面に晒す。まるでドガの裸婦みたいに。)

ポールと従弟ボブとの似た者意識からなる合わせ鏡的息苦しさと、ポールとナタンとの適度な距離感からくる安定の信頼感があって、さらにポールの弟への思いがあって、そしてかつての友人であり、今は絶交状態であるラビエへの、幾重にも積み重なった感情のもつれがある。三時間もある長い映画なので、これら男性登場人物たちの存在感もしっかりと分厚い。

ポールと違って、ラビエは大学内で順当に出世した。死んだ猿の始末(!)は支援したものの(なんという気まずさ)、二人の関係は何も修復されてないし、修復されるべきなのかもわからない。少なくともポールがこれだけ感情をもつれさせていること、さらにそのことで傷付いている自尊心の問題があり、それらをきちんと解消するためにも、ラビエに謝罪とか和解を求めるべきにも思え、しかしもしかしてラビエが、その必要性を感じてなくて、もはやポールのことを気に留めてもいなくて、とくに何も問題だと思ってないのであれば、これはこのまま、どうしようもない。それはそれで恐ろしい事態ではある。

自意識過剰で、優柔不断で、自らが傷付くのをおそれる若者の、こういう苦悩の深さは、大人になってしまったらもはや理解できない、極度に狭い穴の中に頭を突っ込んでもがき苦しんでる、はたから見れば滑稽でしかない、しかし本人にとっては死にいたるほどの、空前絶後の苦しみであろう。

今観れば、じっくりと描き出されていく各エピソードが一々面白くて、それもおおむね時系列的に語られていくのが、あるときふいに説明もなく回想場面へ移り変わることと、ナレーションがポールの声でありながら、ポールを含む三人称で語られる点が面白い。

この回想場面の指し挟まれ方が、絶妙で素晴らしい。というかどれが回想でどれが現在なのか、にわかには判別しがたいのだ(少なくとも自分には)。だからポールがある時点でシルヴィアとそこそこ仲良しだったときや、ナタンとの距離感や親和の度合いが、まだ現在とは違っていたとか、エステルとの関係なども、明らかに昔だとわかる場面もあれば、そうかな?と思わせる場面もあれば、あ、やっぱり時系列そのままかと後で気づく場面もあれば、そんな曖昧さが、彼ら登場人物たちの関係性の、時間によってどう動き、どう変化したのかが、すぐにはわかりづらくなっていて、それがかえって効果的に物語に奥行きを与え、彼らによるある期間の印象を、ぐっと豊かにしているように思われるのだ。

それにしても最後のシルヴィアの言葉には、胸を詰まらせるものがある。そうかこの言葉は、この映画によって語られた言葉だったのかと、それを今さら思い出して、目に涙を溜めているシルヴィアを見て思わずもらい泣きしそうになった。

大昔に観たときにもそう思ったかどうか、おそらくそうは思わなかった。イラついただけだった気もする。でも今は違うな。これは泣ける。でも願わくば、こんなに時が経ってからではなく、もう少し前に聞きたかった。繰り返しになるけど、なぜ僕はこの映画を観返すまでに、これだけ膨大な時間の経過を必要としたのか、そのことを自分に問いたいとも思う。しかし今となってはもう遅い。

(ちなみに十年以上前にツタヤで買ったまま放置したあった中古VHSで観たのだけど、これは近いうちにもう一度観ようと思って、本作を含むデプレシャン初期作品blu-ray BOXを購入した…。)

VHSでマイケル・チミノ「サンダーボルト」(1974年)を観る。面白かった。マイケル・チミノ初監督作で脚本も同じ。娯楽作として人を面白がらせる技が、じつに冴えてる感じ。クライマックスである銀行襲撃までの、ダラダラのんびりした感じが、ちょっと「勝手にしやがれ!〇〇計画」風な感じもあって、また良い。

アイダホの荒涼とした地平にぽつんと建つ教会があり、遠くから砂煙を上げて走ってくる自動車が見える。画面の手前まで来た自動車は、ぐるっと迂回して砂煙で一瞬画面を真っ白にしつつ、建物の前に停車する。車から降りてきた男は、如何にもいわく付きな雰囲気だ。教会のドアを開けると礼拝の真っ最中で、檀上の神父はなんとクリント・イーストウッドである。男とクリント・イーストウッドは教会の入口と奥とで向かい合う。当然のごとく男は銃撃を開始する。教会内はパニックとなり、クリント・イーストウッドは間一髪で銃弾を交わし裏口から逃げ去る。

同じ時と思われる別場面で、ふざけた軽薄な態度で販売中の中古車を物色してる男はジェフ・ブリッジズである。彼は販売員を出し抜いて、車を盗難しそのまま走り出す。そこへ逃走中のクリント・イーストウッドが通りかかる。強引に彼の車に乗り込んだクリント・イーストウッドはかろうじて追手の追跡を逃れ一命をとりとめる。

偶然に出会った、軽薄で調子が良くて、どことなくふざけた態度の若者と、それを何となく苦々しく思いつつも仕方ないといった態度のやや年嵩の男、どちらもあまり堅気とは思えない、ワケありな雰囲気の二人の旅である。すくなくともクリント・イーストウッドは彼に対してずいぶん年上のようだし、この若者を自分の関わってる厄介事の道連れにしてしまうことに躊躇もするし警戒もする。しかし若者は無邪気で何も気にしてない様子だ。一度は袂を分かつかと思いきや、再び一緒になった二人は、いよいよそのまま旅を続けることになる。

河のほとりでビールを飲みながら、クリント・イーストウッドジェフ・ブリッジスに自分の過去と隠した金の在り処を話す。それを聞いたジェフ・ブリッジスはそのとき、クリント・イーストウッドを出し抜こうとか騙そうとか、そういうことは一切思ってなくて、彼の言葉を聞き、ぜひそれを取りに行こうと話す。まるで楽しい旅行をこのまま続けようとでもするかのように。

クリント・イーストウッドを執拗に追う男レッドの襲撃に対しても、ジェフ・ブリッジスはその状況から逃げ出そうとはしない。彼を援護し協力の態度を示す。それは金のためだけとも思われない。単に面白いからなのか、クリント・イーストウッドのそばに居るのが楽しいからなのか。彼の軽薄で調子の良い態度は、つねに変わらない。

銀行襲撃作戦が始まってから、さっきまで敵だったかつての味方が、あらためて味方になり、ひとまず一致団結する。各人まるで似合わない滑稽な制服でアルバイトしながら、作戦は着々と進行する。ジェフ・ブリッジスは女装してセキュリティの従業員を誘惑する。そんなバカな…と思うも、襲撃そのものは秒単位で計画されており、すべての歯車を噛み合わせるべく、息詰まる緊迫感をもって強盗計画は進行する。

次々とあらたな自動車を入手することで、はじめから最期まで二人の旅は続いた。盗んだり乗り換えたり、彼らはいったい何台の車に乗り換えたのか。最後は当初憧れたお望み通りのキャデラックで走り去る二人。しかしジェフ・ブリッジスはまるで眠るかのように絶命する。クリント・イーストウッドは助手席に力なく頭をもたげる彼の姿を、無言で見つめるだけだ。

うろおぼえだけど、松本零士の戦場まんがシリーズ作品のどれかにあった台詞。「飛行兵はいいなあ、座って戦争ができるんだから」

飛行機の座席に座ってられる飛行兵とちがって、歩兵は自らの足でひたすら行軍するのだから、言いたいことはわかる。でもおそらく飛行兵は、座って戦争をするというよりも、飛行機に身体を括りつけられて戦争するのだ。座って戦争ができるのは、金持ちか偉い人だけだろう。だからほんとうは、座って戦争してる連中をこそ、殺すべきなのだが。

で、だからつまり、シートベルトで飛行機の座席に身体を括りつけないと、飛行機の操縦はできないだろう。操縦士の身体は飛行機に固定され、両者にずれがなくなり、機体の動きにともない物体にかかる遠心力や慣性力は、操縦士の身体に負荷としてそのまま伝わる。それは機体を身体の延長とみなすことでもあるし、自分の肉体を機体に隷属させることでもある。

地上を歩き続ける歩兵は、いかなる状況下でもつねに生きようとあがいているかのようだ。死のうと思って歩く人はいない。死の行進で、強制的に歩かされているときでさえ、肉体は生きようとしている。肉体そのものが、この私に疲労や苦痛や悲嘆や絶望を返してくるのだ。

飛行兵はそれをはじめからあきらめ、手放した存在だ。彼らははじめから死の準備をしているかのようだ。飛行機は、乗り物そのものは疲労しない。壊れてしまうことへの恐怖を返してこない。

乗り物がそもそも、そういうものだ。飛行機にせよ、自動車にせよ、生まれたばかりの時代のそれは、かならず一人乗りだった。一人乗りの乗り物がそもそも、死に魅了されているのだ。

動物も場合によっては、移動する物体に乗り込み、その便利さに便乗することがあるかもしれないが、さすがに一人乗りの乗り物に自らの意志をもって、己が身体を括りつけることはしないだろう。というか、何かに自分を括りつけるという行為は、(他人の助力を請える)人間にしか、不可能ではないのか。

まるで動物のように、誰もが生命の危険から身を守ろうとするなら、一人乗りの乗り物ははじめから考案されない。だから動物だけの世界ならば、この世に乗り物が発明されることはないだろう。

動物たちは、闘争することがあるとしても、双方に甚大なダメージが想定される闘いは回避する。まして組織的に(組織的な勝利を目指して)闘うことはない。動物は、自らの生命に対して危機を感じれば、泣き叫び、暴れる。涙を流すこともあるかもしれない。しかし、こうなることを薄々予想していたとは思ってないだろうし、後悔もしないだろう。後悔するのに必要な、あのときあの場所でといった再帰の思考がなく、今この恐怖の中にいるだけであろう。

人は死を動物的に恐れ、恐怖することができない。冗談ではない、まっぴらごめんだと、最初から予断なく言い切ることができない。

移送列車に乗せられたとき、飛行機の座席に括りつけられたとき、これでもうお終いだ、いよいよ俺は死ぬのだと覚悟を決めながらも、どこかに生の不思議さを見ている。かすかな愉悦を感じている。死へ向かうことの魅惑と、今ここにある生命の感触とが触れ合うのを感じている。

身体の特定部位とか衣類とか持ち物に、強い性的執着をおぼえるのがフェティシズムであるとして、そういう性的感覚は自分にもわかるつもりだが、その執着心が、じっさいにそのものに触れても消えないというのが理解できない、とまでは言わないけど、幻想とははかないものなのに…とは思う。

自覚された性欲なんて、おおよそフェティシズムではないのか。たとえば女性の靴が好きだという性的執着があるとしても、じっさいに手でその靴に触われば、どこにでもある靴の触感を自分の手に返してくれるはずで、そのときに性的幻想は瞬時に喪失されないかと思う。いや、そんなことはないのだ、それに触れるとか、靴で踏まれるとか、そんな直接的な触感的感覚でも、性的幻想は潰えるどころか、さらに膨張するのだと言うなら、それはそうなのだろうし、それで良いかもしれないが、だとしても程度問題ではないか。所詮は誰もが、どこかであきらめているのだし、どこかで自分に嘘をついてごまかしているのではないか。

フェティシズムとはつまり比喩であり、まるで無関係なものが短絡的に結びついた状態が、人の心の中でずっと維持されている。その比喩の状態に魅了されるというか、比喩の先の決着されない意味の気配に魅了されているということだろう。

じっさいに、他人の肌や温もりを感じ、性的部位に手で触れ、肌を直接重ねたときの触感は、フェティシズム的幻想をけっして充足させない。それとこれとは別であり、他人の肌や性的部位や、その体温や息遣いは、けっして固有のものではない。このとき、身体は多かれ少なかれ、どれも同じであり、特筆すべき個体差はないと言ってよい。

たとえば恋愛感情に心を奪われた人間が、その相手と抱擁したとする。それはきっと天にも昇るような幸福な体験のはずだが、相手の肉体そのものは、人体一般の範疇を越えるものではなく、なんら特別なものではない。どれほど高揚した瞬間の只中であっても、人は必ずどこかでその事実に気づいている。

「他ならぬこの私」を捉えることが出来ないのと同様、「他ならぬあなた」も捉えることができない。恋愛感情によって、他でもないあなたこそが私のこだわりであり執着なのだというとき、にもかかわらず私にとって、なぜ貴方が貴方でなければならないのかを、私はけっして説明できないということだ。

これは冗談だけど、僕は大昔、誰かの肌にはじめてふれたとき、あまりの「現実感」に慄き、これこそが「物自体」では…、と思ったことがある(ウソです)。

月曜夜に来た業者は、うちの風呂の蛇口を一目見るなり「あ、部品がちがう」と言って五分で撤収した。仕方ないので管理会社経由で別業者に来てもらうことになったのだが、事前にメールで送信した蛇口部分の写真画像に対する担当者の返信が「いくつか部品を持参して試します。もし当日完了できなければ、また日程を再調整させていただくかもしれません」とか、妙に自信なさげな、上手くいかなかったときの逃げ道確保なニュアンスが濃厚に漂っていた。

つまりうちのマンションの水回りが、今となっては如何に古くて汎用性に欠けるかをこの事態は示しており、じつは前からそれはうすうすわかっていた。業者を家に呼んだことは以前にも何度かあり、そのたびに担当者の「どうも簡単には済まないぞ」とでも言いたげな態度、あるいは苦しい言い訳をされて出直されることが多いからだ。

仕方ないんだなあ、古いからなあ、と思って、ここに住む以上あきらめるしかない。賃貸だから修繕費用は貸主側なのでそれは良いのだけど、あまり大掛かりな工事になるのも嫌だし、当分このまま、微妙な状態をダマしダマし使っていくしかないのか(というか、すでにそのやり方に慣れてしまっているのだが)。

ある時代の、東京に縁の深いおじさんたちは、永井荷風が好きである。ちなみに江藤淳小林信彦はともに1932年生まれ、永井荷風は1879年生だから当然ながら両者とはまるで同時代ではなく、二人は荷風の見た景色をそのまま見たわけではない。にもかかわらず、江藤淳小林信彦永井荷風が好きで、荷風の見たものをあたかも自分の記憶した景色であり時空間であるかのように読む、というか荷風の見たものが自分の見たものとつながっていると感じる、その確信こそを大切にしたいと思っている、のだとする。

たとえば彼らがいつかこの世界を去ることで(江藤はすでに死去)、彼らにとっての永井荷風も消えていく。もちろん永井荷風はこれからも読まれ継がれるだろうけど、江藤淳小林信彦という個体の条件下における永井荷風は、これで消えていく。ただしそのような個体の条件下において読まれた永井荷風が、かつて存在したという事実は残る。それは江藤や小林の書く本によってだ。

だから我々は彼らの本を読み、彼らの頭の中にあるだろう永井荷風に対して、彼らに替わって、というか彼らから譲り受けたかのようにして、何か未練のような、ないものねだりの感情を持たされることになる。彼らが荷風を読んで思い浮かべる景色とか、ある時空間、おそらくは彼ら自身の記憶とないまぜになった、個人的感傷もともなうだろうそれを、同じように感じたいと思わせられ、しかしそれがかなわないことを、はじめから知っている。

しかしもともと荷風自身が、失われたものへの郷愁とか、かつてそうであったものの喪失感を、中心的主題としているのである。関東大震災以後の東京を描くとはつまりそういうことで、以降誰においても東京を描くとは喪失を描くことにほかならず、東京という場自体が、はじめから失われた何かとして追い求められる対象なのだ。

彼らはまるで、深海を行く潜水艦や宇宙を行く人工衛星の撮影した映像を吟味して、ああそうだ、思った通りだ、この景色こそ想像した通りのものだと、感慨に耽っているかのようでさえある。知らないはずの過去が、私の知っている何かと強く関連付きながらあらわれ、私たちの現実と地続きであること、むしろそれが私たちの現実の輪郭を強調し、覚醒させる何かとしてあらわれる。

たとえばプルーストを読むというのも、つまりはそういうことなのだろうか。誰かによって見出された、誰かの過去。もとよりそれははじめから無かったのかもしれないが、誰かによって信じられていて、それによって誰かの心を支えている、いわば二重の過去は、その誰かがいなくなることで消えていく。しかしそれが誰かによって見出された、その事実自体は残る。作品が読まれるというのはそういうことで、作品の質、その厚みとは、そのような時間の堆積を指すということか。そのような何かがかつてあったように感じることが、その厚みということか。

風呂の蛇口が壊れて栓がきちんと締まらず、お湯が止まらなくなった。温泉かけ流し状態である。水が出ないのは困るが、止まらないのも同じくらい困る。仕方がないので、外の元栓を締めたら止まった。

これだともちろん、家のなかの全ての水供給が止まったままだ。ほぼ生活不能、このままでは、やって行けないことになる。至急修理を請いたいところだが、運悪く日曜日の夕方なので管理会社に電話しても不通である。なすすべないので、今日はあきらめて、むしろいつか来るべき災害時のリハーサルだと思って、浴槽に溜めた水を有効活用し、諸事取り行う。

思えばここも古いマンションで、築何十年とかで、我々が住んでからも相当な時間が経過した。ちなみにこのブログをはじめたのは2006年6月頃で、ここに引っ越したのはたしか同年11月である。まじか、いったい何年経つんだ…と、なんかやってることも生活も、ほとんど何も変わらぬうちに、時間ばかりが過ぎる。おそろしいことだ…などと書きながら、べつにおそろしいとも思ってなくて、ただ漫然と水のように、気づいたらそれだけ時間が経っているという感じ。

まあ、水回りはさすがに劣化してくるものだろうが、でもうちはなぜか、不思議なほど電化製品が壊れない。テレビも冷蔵庫も二十年以上壊れてないはず。洗濯機は音がうるさい(と妻が言う)から、数年前に買い替えたけど、壊れたわけではなかったはず。家具や調度品も変わらないので、室内の景色が昔も今もそのまま。本棚には当たり前のように十年とか二十年以上前からの「未読本」も多数ある。すべてがこの調子だから、時間が止まっているとは言わないがその流れは緩慢で、それは二人の住人も同じで…と思いたいがどうか。そこは自覚の問題か。