VHSで、アルノー・デプレシャン「そして僕は恋をする」(1996年)を観る。はじめて観たと思っていたけど、そんなことなかった。登場人物たちが次々と出てくる序盤で、うわ、これか!!と思った。始まるやいなや、何十年も封印されていた箱の蓋を、間違えて開けてしまった感というか、うわ…これは、かつて観ることのできなかった、観るのを拒否したかった、居心地の悪いアンビヴァレンツの記憶の揺り戻しがすごかった。これは自分にとってそんな作品であり、再生されたものを見て、もはやすっかり忘れていた(無かったことになっていた)過去が、ついに呼び起こされたのをぼんやりと認めるほかなかった。

もちろんそれは僕個人の勝手な思いに過ぎないのだが、あえてその主観を優先で書かせてもらえるなら、かつてまともに観るのを拒否したくなった作品を、今こうして冷静に「映画」として観ることができていて、しかしそれだけのために、この数十年という膨大な時間が必要だったのかと、半ば呆れ半ば寂しいような気持になった。そして、あらためて言えることとして、この作品は素晴らしい。

大学の非常勤講師で、論文を書かぬまま五年も足踏みしてるポール(マチュー・アマルリック)は二十九歳である。ああ嫌だな、自己防衛本能強すぎで、優柔不断で、自らが傷付くのを過度におそれる、この若さ、この年代の嫌なところを、一身に背負っている感じだ。

で、こういう人物が、狭いといえば狭い交友関係のなかで、本来目指されるべきステップアップとか、業界への足掛かりとか、誰それに気に入られるとか嫌われるとか、そういうことを一々友人や女友達らから、批評・批判され、うっすらと他人の眼差しで眺められている感じ。

この空気が、昔の自分には地獄級に耐えがたかった。こんな不快な映画があるだろうかと思ったものだ。各登場人物たちとの関係や、それぞれの人物の思惑や苛立ちや噂話など、最初のジャン=ジャックの家でのパーティー場面はひじょうに面白いのだけど、しかしこの狭い家の中に何人もの人がいっぱい、押し合い圧し合いで集まって、皆が酒のグラス持ってふらふらする、あー!如何にも二、三十代の若者の集うパーティーの匂いで、こういうの、最高に嫌いだったな!と、当時の苛立ちが、埃をかぶったまま丸ごとよみがえってきて、色々思いは巡り、もはやあまりにもなつかしい……。

大学講師していて、論文を書きあぐねていて、色々とモラトリアムで、彼女と上手くいかなくて、他の女と揉めて…という、こういう人物を体現する、マチュー・アマルリックという俳優をおそらく僕はこれで認知したし、その後もこのイメージがずっと抜けない。こういうやつなんだよと思ってイライラする。その後ウェス・アンダーソン作品他でも多く見かけるけど、最近のそれとこれとは別物だと思っている。

大体この人たち皆「リア充」じゃないかと(はじめて観た当時、そんな言葉はなかったけど)。悩み苦しみ藻掻きながらも、まるで「引きこもり感」とか「自閉感」を持ってないじゃないか。狭いコミュニティのなかでくっついたり離れたり、トレンディドラマかよ、そんなのはおかしいじゃないかと、当時自分が感じた反発の内訳は、簡単に言えばそういうことで、その程度のことに過ぎないのだが、でも世の中はあれから、ある意味で自分の思ったとおり「引きこもり感」と「自閉感」を、より強めたのだなとも思う。それはそれで、わかいやすい変化ではあり、けっして面白いことではなかったなと。

それにしてもポールの恋人エステル(エマニュエル・ドゥボス)は最初一見、子供じみた鬱陶しい女と思いきや、おそらく観る者の心をもっとも引き付けうるような存在感を示しはじめるのであった。それはこの登場人物の行動や仕草や言葉がというよりも、この登場人物にあたる光の美しさによってではないかと思われる。最初にポールから別れ話を切り出されたときの室内光の美しさにしろ、試験を受けに会場へ出向く場面にしろ、最後の「生理止まったかも」の一連のシーンにしろ、この、ちょっと顎下半分が出っ張ったような顔の、どうにも子供っぽくて頼りない感じだった女性が、見る見るうちに魅力的に、すっときれいな孤独感をたたえた「大人の人物」になっていく過程を、黙って見守るだけみたいな気持ちにさせられるのだ。

でも、昔はじつに最悪だと思いましたけどね。最悪と言えばヴァレリー(ジャンヌ・バリバール)ももちろんそうで「こんな私を何とかしてよ」的な、あの開き直った態度とか、じつにありえない、どこか遠くに連れて行ってそのまま置き去りにすればいいのに、とか思ったものでした。まあそれを聞いてるポールのグダグダな対応も最悪で、それがまた身につまされるというか、自分に批判の矛先が向いてるように感じてさらに逆上したくなったりもしたのだが…。

ただエステルにせよ、ポールにせよ、この映画は仲間内でつるんでいるところから、まがりなりにも手探りで抜け出していく(そうせざるをえない)人に対して、ある魅力的な光を当てようとはしているのだと思う。それは自力とか自分の意志で物事を決めることの称揚とかとはちょっと違う。たぶん自発性とか意志ではない。誰もが何も変わらないと言えば変わらないし、おそらく「大人になる」ことは立派なことでも良いことでもない。それは単に、効率的であることに過ぎない。合理優先で閉鎖することに過ぎない。ポールは別に、最初から最後までそのままなのだが。彼は最後に、シルヴィアからの言葉によって「浄化」されるのだ。

ナタンはポールの友人で「いいやつ」であるが、彼はポールの元カノであるシルヴィアの今の交際相手でもある。だから微妙と言えば微妙な関係で、それをお互いに意識してはいる。しかしそれがあるからこそ、ナタンとポールは互いに紳士的な距離感を保っていられるのだ。よく考えたらナタンはポールを咎めたり反対したりはしないのだ。親身になって相談にのる、という感じでもあるけど微妙にそうではない。つねに無難な答えを言い続けてるだけとも言える。でも「いいやつ」って、要するにそういう感じな人のことを言うのではないのか。そしてもちろん、それは悪いことではない。そういうのこそ「やさしさ」だ、とも言える。(で、そういう感じも嫌いだった。昔は。)

そしてシルヴィア。あらためて思った(思い出させられた)けど、ほんとうに嫌な目つきで、他人を見る女だよな。ポールの心は、つねに彼女に見透かされている。彼女は常にポールの一枚上手だ。シルヴィア、美しくて、そしてまさに、そういう目をした女なのだ。映画を観ているはずなのに、こういう登場人物から自分を「観られる」感覚。それは耐えがたいものだ。

シルヴィアって辛辣だとつくづく思う。別に意地悪なわけではないし、彼女もそれなりに困っているのかもしれない。でも偶然出会うたびに、何こいつ、みたいな、あの目で見られるのだ。いくらなんでも、辛すぎないか。また傍らのナタンの「いいやつ」感が、それに輪をかけてキツイのだ。そこで二人きりにさせますか、というプールサイドでの出来事。果たしてポールは、あろうことか更衣室で着替え中の彼女の裸体を見る。そのときのシルヴィアの態度。まるで動じず、恐れもせず、じっとあの目でポールを見つめつつ、ゆっくりとうずくまる。ポールは絶句する、というかポールとシルヴィアが互いにあのとき何を思ったのか。これまで互いの裸体を見たことがなかったわけではなかったろうけど、それにしても……。(本作でシルヴィアら女性たちは、うずくまる格好でたびたびヌードを画面に晒す。まるでドガの裸婦みたいに。)

ポールと従弟ボブとの似た者意識からなる合わせ鏡的息苦しさと、ポールとナタンとの適度な距離感からくる安定の信頼感があって、さらにポールの弟への思いがあって、そしてかつての友人であり、今は絶交状態であるラビエへの、幾重にも積み重なった感情のもつれがある。三時間もある長い映画なので、これら男性登場人物たちの存在感もしっかりと分厚い。

ポールと違って、ラビエは大学内で順当に出世した。死んだ猿の始末(!)は支援したものの(なんという気まずさ)、二人の関係は何も修復されてないし、修復されるべきなのかもわからない。少なくともポールがこれだけ感情をもつれさせていること、さらにそのことで傷付いている自尊心の問題があり、それらをきちんと解消するためにも、ラビエに謝罪とか和解を求めるべきにも思え、しかしもしかしてラビエが、その必要性を感じてなくて、もはやポールのことを気に留めてもいなくて、とくに何も問題だと思ってないのであれば、これはこのまま、どうしようもない。それはそれで恐ろしい事態ではある。

自意識過剰で、優柔不断で、自らが傷付くのをおそれる若者の、こういう苦悩の深さは、大人になってしまったらもはや理解できない、極度に狭い穴の中に頭を突っ込んでもがき苦しんでる、はたから見れば滑稽でしかない、しかし本人にとっては死にいたるほどの、空前絶後の苦しみであろう。

今観れば、じっくりと描き出されていく各エピソードが一々面白くて、それもおおむね時系列的に語られていくのが、あるときふいに説明もなく回想場面へ移り変わることと、ナレーションがポールの声でありながら、ポールを含む三人称で語られる点が面白い。

この回想場面の指し挟まれ方が、絶妙で素晴らしい。というかどれが回想でどれが現在なのか、にわかには判別しがたいのだ(少なくとも自分には)。だからポールがある時点でシルヴィアとそこそこ仲良しだったときや、ナタンとの距離感や親和の度合いが、まだ現在とは違っていたとか、エステルとの関係なども、明らかに昔だとわかる場面もあれば、そうかな?と思わせる場面もあれば、あ、やっぱり時系列そのままかと後で気づく場面もあれば、そんな曖昧さが、彼ら登場人物たちの関係性の、時間によってどう動き、どう変化したのかが、すぐにはわかりづらくなっていて、それがかえって効果的に物語に奥行きを与え、彼らによるある期間の印象を、ぐっと豊かにしているように思われるのだ。

それにしても最後のシルヴィアの言葉には、胸を詰まらせるものがある。そうかこの言葉は、この映画によって語られた言葉だったのかと、それを今さら思い出して、目に涙を溜めているシルヴィアを見て思わずもらい泣きしそうになった。

大昔に観たときにもそう思ったかどうか、おそらくそうは思わなかった。イラついただけだった気もする。でも今は違うな。これは泣ける。でも願わくば、こんなに時が経ってからではなく、もう少し前に聞きたかった。繰り返しになるけど、なぜ僕はこの映画を観返すまでに、これだけ膨大な時間の経過を必要としたのか、そのことを自分に問いたいとも思う。しかし今となってはもう遅い。

(ちなみに十年以上前にツタヤで買ったまま放置したあった中古VHSで観たのだけど、これは近いうちにもう一度観ようと思って、本作を含むデプレシャン初期作品blu-ray BOXを購入した…。)