お好みの恐怖


僕という人間は実際、ほとんどこの世にいないも同然だとして、そんな芥子粒ほどの僕が認識できるこの世界は断片の集積であって、単なる偶然のあらわれの連続である。今までずっと、向けた視線の先や物音のする方角の感じをたまたま記憶していて、それらの何十年にも及ぶランダムな積み重なりの事を現実だという風に認識している。…そういうのは単なる理屈というか、イメージだろうけど、恐怖の体験とは、そのようなイメージの強制的な支配を招く。その中で為すすべなく殺される自分がいる。


恐怖にも好み(?)というのが生じる余地はあるのだろうけど、僕はたとえば意味不明で文脈不明の見知らぬ女性が、なぜかわからないけどものすごい顔をしてこっちを見ているとか、僕はそういうのは死ぬほど怖いのである。もう地底の奥底から震撼するほどの恐怖である。一応云っておくが過去に女性関連のトラウマとかそういうのがあった訳ではない。おそらくそういう外の対象に自己が責め苛まれる事を恐れているのではなく、身元不明の見知らぬ怪しい女性を自分自身のように感じるからだろうか…それに近い感触が自分の中に広がっていくのが耐え難く恐ろしいのだ。


連続して唐突に大きな音が繰り返されるとか、事あるごとに恐ろしい表情の人物が自分の目前に現れるとか…そういう体験の何が怖いのか?というと、その「相手(自分)」が一体何を求めているのか?が皆目わからないのに、ひたすらものすごい強制力で「聞く耳を持つ」状態を強制される事だ。そういうのは無条件に怖い。それは相手を問わない。相手が「幽霊」だろうが、「発狂した女」であろうが、「映画」であろうが、一方的に受け入れざるを得ないのは一緒なのだ。だから耐えられないのだと思う。(映画の目的は作り手が知っている訳ではない。あれは映画自体が、こちらに何かを問い質しにくるような体験である。それは死ぬほど怖い事だ。)よそよそしい何かが無遠慮に至近距離を通り過ぎていく事自体の、絶叫したり泣いたりしても無駄な現実である。


そういえば子供の頃テレビで見た「ジョーズ」という映画はものすごく面白い映画だったが、僕は「ジョーズ2」も好きだった。「ジョーズ2」では、サメが結構、興ざめなほど何度も登場してくるのだが、僕はあのサメの「顔」をじっくりと見るのがとても好きだった。一作目でもクライマックスでは大盤振る舞いで出てくるので、それでも充分なのだが、如何せん一作目のクライマックスは、あまりにも緊迫感と緊張感がものすごくて子供心にも落ち着いては見ていられなかったので、やはりある程度サメの姿を「ゆっくり」見れる「ジョーズ2」の方が楽しかったのかもしれない。まあいずれにせよ「こんなのに喰われるのはヤダナー」と思いつつ、あのデカイ口と無表情な黒い目を見てるだけなのだが。