伝統とか歴史と地続きではない自分


古びた映像や、ノイズ混じりの録音物が好きだっていうのは、そこに何か、本格的な伝統というか、歴史みたいなものの気配が、確かに存在したように感じるからかもしれないと思った。


古びた写真とか、映像や、ノイズ混じりの録音物というのは、そんな品質でも、いやだからこそなおさら、価値ある情報であり、「価値付け機関」からのたしかな承認を得ている筈のものの感じがして、その認証の確かさみたいなモノを、僕は心のどこかで、まだ素朴に信仰しているのだろうと思う。


でもその一方で、少なくともそういう価値体系が、僕の感覚や生活と地続きだとは、全く実感できない部分があるのも事実で、だから、今後も歴史や伝統について、積極的かつ敬虔にアクセスを試みたいという意欲は持ちつつ、それでもそれらと、自分との繋がりに関して、あまり実感できない。という思いを、忘れたふりしないようにする事は、僕が、可能な範囲内で最大限、倫理的であろうとする事になるのかもしれないと思う。


まあそれでも、先人たちの作った歴史とか伝統とかの実態が実は、生身の人間の、状況に応じたやぶれかぶれの判断と、全霊を賭した頑張りの、飽くなき繰り返しから成っている事も、なんとなく判っては来ていて、そういうのをなぜか、実感した気になったときに、すごく虚を付かれる感じがして、やけに立派だけど自分にとって空疎なだけだったものが、その瞬間なんとなく頼りないような、それでも親しいような、そんな近しい何かに感じられ、穏やかな不思議な思いに包まれる訳で、云わば歴史に、感情移入の余地が生じてくるように思われる事はあって、その感覚はたぶん幸福な感覚なのだが、実は、こういう幸福感こそが危険なのかも知れない。しかし、延々、何にも拠り所を持たず、なんか斜に構えた態度でいる事自体は、実に滑稽で無様である事も確かだ。


歴史を参照しつつ、今の空気を読む。みたいな処世ではなく、巨大なシステム(幻想)の1ファンクションとなることに恍惚として安らぐのでもなく、全てに背を向けた、甘えを含んだ僻み根性でもなく、いい感じで、やっていけたら良いのだけど。。