エジソン、フォノグラフの文字性、など


「レコードの美学」をひたすら読む。読むのが、やや早い。レコードの考古学という事で、1877年にエジソンフォノグラフを発明したあたりから、1967年にビートルズがサージェントペッパーをリリースしたあたりまで、一気に100年近く進んでしまった。100ページくらいの間で、いろいろと面白い出来事がありすぎで、このペースで普通に読んでしまうと、面白いところ一つ一つを、あまりにも早く過去へと飛ばしすぎてしまうので、それではもったいないので、もう少しゆっくり、というか、きりのいいところでまた最初に戻ってはじめから読み直ししたりする。実際、エジソンのところだけでも圧倒的に面白すぎる。エジソンという人は本当に面白い。もうまったく、自分というものも、自分が作り出した数々の発明品に関しても、もう笑っちゃうくらい、爽快なくらい、コントロールできてない。自分の成果を利用して、自分が幸せになるどころか、自分がどんどん消失していくような感じだ。それに、必死の勢いの、なんとも凡庸でありながらも決死のクソ意地で、零れ落ちそうになる人生にしがみつき、喰らい付いていく。いやはや、これほどの天才でありながら、なんという過酷な人生であろうか。こういう人物を見てると「幸福な一生を送りたい」などという凡人的な思いが、如何につまらないセコイ願望なのかが見に沁みてわかって自己嫌悪にとらわれると同時に、逆にヤケクソ気味なカラ元気が出てくる。。


…と、エジソンのことを考えてると話がどんどんそっちに引っ張られてしまうが、とりあえず1.3章「エクリチュールと録音」という章に書かれていることが、ものすごく刺激的だ。初期の発明者たちが録音機械に対して付けた名前…「フォノグラフ」「グラフォフォン」「グラモフォン」みな、「音」phoneと「文字」graphを組み合わせた名前を付けているのだという。

レコードは当初より、音と文字、正確には書かれたものの総称としてのエクリチュールを結びつけるものと考えられていた。(中略)フォノグラフは写真(フォトグラフ)の音声版という性格を持たされた。光を留めた粒子の代わりに音を留めるシリンダー上のギザギザが音を記録した。かつての自動演奏楽器の金属のツメや紙の孔がこれから音を発生するための仕掛けであったのに対し、このギザギザは一度は生まれた音の痕跡である。確かに誰かが演奏したりしゃべったりした音を記録することからフォノグラフは始まる。しかしリプレイするとき、音の「原資料」がそこに再現されるのではなく、デリダのいうグラムgrammeとして、即ち予め期限を奪われた差異としてあらわれる。自動ピアノのロールに欠けていた「時間のストック」、つまり”ずれ”がフォノグラフの文字性にとっては本質的である。

レコードから聴こえてくる音というものが、「予め期限を奪われた差異としてあらわれる」というのは、ものすごくよくわかるような気がする。それはレコードが再生されるときのあの感じを見事にあらわしてる感じがする。最初からずれているのだが、ずれの元(根拠)になるものはない。ただ、ずれている、という事だけは確かだ、というあの感覚だ。それは「再現」ではない。何の根拠ももたない、いきなりの出現なのだ。それが「文字」というものの本来のすがた…。