豊かな音

電車の中で聴こえる誰かのiPhoneのメール受信音とか、オフィスのどこかでセットアップされたWindowsの起動音とか、めずらしくもない日常的なものだけれど、今更だけど、どの音もきれいな音だなと思う。昔はもっと、ひどく汚い音ばかりだった。チャチな小さいスピーカーとかメガホンとかの、ひび割れたようなコーン紙のビビリと区別がつかないような音とか、そんな周波数帯域のきわめて狭い貧しい音ばかりで、それがあたりまえだった。もちろん当時から高級オーディオは存在したしノイズリダクションとかデジタル録音もあったけど、日常的には小さなラジカセやラジオやもっと貧相な再生装置から、カサカサとした塵芥のような音が埃と混じりあいながら放出されるばかりだった気がする。少なくとも子供時代の僕を取り囲む環境ではそうだった。それでもおそらくある時期からふいにオーディオ機器の価格が下がったのか大衆化したのか、音はしだいに貧相さから脱していき、少しずつ奥行きを増していった。

貧しい音が豊かな音になるというのは、感覚的には音の中に空間とか空気の流れが感じられるようになったということだ。コーン紙の震動に過ぎないと思われたものが、どうやら再生元の音源が想像できるくらいには解像度が上がってきて、向こう側のことを容易に想像できるようになってきたということだ。

同時に、向こう側とこちら側の距離を意図的に塗りつぶすかのような電子音も多用されるようになって、そのような音が形作る空間とか空気の流れ方はこれまでにない独特なものだった。これは電子音そのものの技術というよりもその音が再生される周辺環境の再現性に技術向上が見られたがゆえだろう。

やがてパーソナルコンピュータの時代となり、インターネットの時代になる頃には、日常において塵芥のように放出される貧しい音なんてものは、ほぼ完全に消滅してしまったように思われる。もちろん巷に耳障りで不愉快な音は、今でもたくさんあるだろうけど、それらの音も、昔とは違う。(昔のタバコの方がいい匂いだった、とか、昔のパチンコ屋の方がうるさくなかった、とか、そんな話に近いのか?もしかしたらそうかもしれないが…。)

二十代のとき、はじめてプレイステーションを買って家のテレビに繋いだとき、ソニーのロゴと共に最初の起動音がテレビのスピーカーから出力されて、あのとき「ああ、音の向上もここまで行きついたか…」とある種の感慨をおぼえた記憶がある。あれは音への感慨というか、ついにパーソナルでハイクオリティなものが手元に到来したことの驚きだったかもしれない。というか、そもそもそれまで僕が感じてきた音への感慨は「手元でこれほどまでにリッチな音が…」という驚きだったのかもしれない。90年代半ばか、当時まだPCは持ってなかった。