「ヘルタースケルター」 --ヘヴィ・メタルと世紀末のアメリカ-- 椹木野衣



ヘルタースケルター ヘヴィ・メタルと世紀末のアメリカはトレヴィル/リブロポートより出版された、「椹木野衣 俊英の第二評論集」(帯より)である。刊行は1992年。


当時読んで夢中になったし多大な影響を受けた…というか、圧倒的に面白い物語の魅力にやられたというべきで、いつもそうだが、椹木野衣氏の書くものは実に面白い。最近のヤツでも、「戦争と万博」という著作なんかは驚くべき論旨展開で、まるで下山ケースとか松本清張の社会派推理物を読んでいるようで、こういう面白さというのはやっぱ良いよなあと思う。最近出たヤツは未読だがいずれ読む。


椹木著作は刊行と同期してほぼ大体読んで来た私が、超僭越ながら申し上げますと、僕のオールタイムフェイバリットイッシューとしては、この「ヘルタースケルター」と「テクノデリック」で、「日本・現代・美術」以降はまた別途考える必要があるのかなと思うが、とりあえず、このヘルタースケルターは何故か今、入手できないような感じなのだろうか?少なくともアマゾンには出てこないようだ。何故だろう?


まあしかし、この本には当時感動させられた。この本のあとがきには、こんなことが書いてある。

幼少の頃から、ヘヴィ・メタルサウンドに魅せられてきた。


あの、マーシャルのアンプをフル・アップで駆動したときのシステムの悲鳴は、そのような悲鳴を、言語にあげさせることはできないだろうかと、ことあるたびごとに考えさせてきた。


しかし、そのようなことは、いうまでもなく不可能である。それに、そのような方法を小説や詩に求めるにしては、あまりにも恥を知りすぎていた。

当時の僕を、深く傷つけた言葉だ…というのは大げさだが、でもああ。と思った事は確かだ。なぜならあの当時、90年代初頭に20歳を少し越えたくらいの僕が、唯一重要に感じていたものも、やはりシステムをフル・アップさせたときの悲鳴に他ならなかったからだと思う。


しかし、そのような何かを再現させるために「表現者」として取り組む行為を、高みから「恥を知り過ぎている私には出来ない」と言われてしまうと、若い愚かな若者にとってはこれ以上無いほどの抑止力として受け止めてしまうのだと…。まあその意味では僕も確かに「恥を知る」人間の一人だったのかもしれないが、もっと簡単に言えば「凡庸な人」だったという事であるなあ…っていうか、そんな思い出話はともかく、この「ヘルタースケルター」では、実に面白い工夫で、サウンド・システムに纏わる雑学が「物語」として構築されている。そう。すごい面白い物語なのだ。確かに「荒くれる悲鳴」ではなく、統治されて使い古された物語が今更のように展開され、それがいいんです。たとえば「電気の愚者」と題されたギターに纏わる言及がすごく良い。


…もともと、通常のままではアンサンブルさえ成立しないほどの致命的なまでの音量の乏しさと、ピアノのように単純な身体行為が発音と直結する訳でない特性ゆえ、左手と右手の行為が有機的に連携しなければ楽器として機能せず、そのアーティキュレーション制御から外れた場合、ただガサガサした微かなノイズしか出力できないような操作性の悪さとの、二重の致命傷と言って良い程の貧しさを背負った楽器「ギター」は、それゆえオーケストラを構成する一員からもはじき出される宿命を背負わなければならなかったのだが、その特性をそのままにアンプリファイズされるや否や、今度はオーケストラセット一式とも対等に渡り合う事が出来る程の音量を獲得する。が、その代償として同時に鳴り止まぬハウリングをも抱える事になり、あたかも小声でぼそぼそと囁くしかできなかった少女が一転、いくら咎めてもぶん殴っても叫ぶのをやめないようなヒステリーの大女に変貌してしまうような事態を引き起こす。しかし、その引き裂かれた特性をそのままに、更なる改造行為は飽くことなく続き、処置の上に処置が上塗り重ねられ、集音用ピックアップの一部が蝋付けされ、矯正と改造を繰り返され、傷だらけでギブスだらけの肉体へと更なる変貌を遂げる。こうしてエレキギターがその原初の姿を現し、楽器のモンスターへと変貌していく過程を「デレク・ベイリー」と「ジミ・ヘンドリクス」の両者の軌跡を記述する事でドラマティックに浮かび上がらせていく。・・・この物語仕立てがマジで本当に素晴らしい。