美術作品を観て途方にくれると言うのは、初対面の人物にあって取り付くシマもなくて途方にくれるのとよく似ているかもしれない。あなたが何を考えているのかわからない/私に何を求めているのかはっきりしてほしい。という苛立ちとか、そういうのに苛まれるという状況で、この場合おそらく「出会い」は本来こうあるべき。というぼやっとしたイメージがあらかじめ私にあるから、それにそぐわなくて途方にくれたり苛立ったりしてるのだろう。
ただ、絵なんかを観てる場合、途方にくれる経験を重ねていくうちに、そのうちこうして途方に暮れた所からはじめて「出会い」がやってくるのかもしれないなという感じを、とりあえず信じてみようという気になってくる。人と違って、絵はこちら(私)がどれだけ「出合い」に際してもたついたり、性懲りも無く何度も会いに行ったり、初対面で良い雰囲気にならなかったとしても、向こうは黙って展示されていてくれるのだし、こちらを待っていてくれるのだから便利である。(もちろんちょっと頑張って会いに行かなきゃならないこともあるだろうけど、私との再会を向こうから拒否してくるような絵画はこの世にそんなに沢山はないと思われる。)
というか、話は変わるが、いや変わったようでいてこれも話の続きだが、僕は結構女性の好みに"面食い"な所があるらしく、・・・というか所謂「美人」が好きで、もう今は、年を取ったのであまりそういう感覚が減衰したけど、僕は随分小さい子供の頃から「美人好き」症状にはひどいものがあって、実際に目の前に「美人」がいると、話はおろか顔を見ることすらまともにできないほど緊張して、この世の者ではない女神様が現前されたように狼狽して、柱の影に隠れたりとか、そんな感じだったものである。(僕と現実の世界で知り合いの方へ。これは貴方の事です!)…まあ要するに、初対面な「出会い」が「私」にとってこれほど素晴らしく刺激的な、眩いほどの対象はない!という状態だが、逆にこういうのは注意が必要な訳で、そういうのは、その美人そのものを観て感激していると言うよりは、多分に「私」の中で作り上げてしまった観念が駆動して、切り切り舞いしてるだけだったりするのである。だから、ある程度「出会い」に経験を積むと、そういう一瞬のインパクト。というものに対して、かなり懐疑的になれるというか、そういうのを簡単に信用しないような耐性ができてくる。もちろん「好み」というのはこれは人間個々に、絶対あるのだから、そこまでスポイルする必要はないので、相変わらず美人最高。かわいいのが一番。で問題ないのだが、それでも「出会い」においては、いつでも乾いた現実の中で、どうにも取り付くシマもなく途方にくれるような感じ自体が、とても大切なので、昔のようにその空気の厳しさから逃げたくて仕方が無いような気持ちは、ずいぶん減ったように思う。
まあだから、絵の内容についても必ずしも「美人」でなくてもいいよね。的なものすごくつまらないオチに繋げつつある自分を今かなり恥ずかしく思うのだが、ここまで書いてしまったのだから仕方が無い。ごめんなさい。っていうかこの文章なんだこれ!面白くないねえ。ああやれやれ。