「小説の自由」保坂和志


小説の自由


数日前から保坂和志の「小説の自由」を読み始めているが、とても面白い。でも面白いのだけど、ああやっぱり小説を読むというのは、本当に贅沢な行為なんだなあと改めて思った。それは僕にとっては、「絵を観る」ことに置き換えてみた場合、すごいよく実感できる。絵画を観るとき、一枚の絵の前に立って、しばらく眺めて、何事か考えて、で、いずれ(数分くらい?で)その場を立ち去る。それで鑑賞体験はとりあえず終了してしまう。でも、それなりに本気で絵を観るといった場合、実はこれで終了とはならなくて…いや満足できたのなら終了したって全く構わないのだが、でもまあ、一般に優れていると云われているような絵画一枚の品質というのは、たいていの場合そういう鑑賞体験一回でもっともらしくすくい上げられるような便利な構造をしていない。というか、観ている人間自体が、結構不安定な受信機でしかないため、どうしたって何度も何度もその絵の前に訪れたり、また訪れて観てみようかな?と考えてみたり、あの絵を5年前に観たよなと思い出してみたり、また観にいって、そういえば5年前にも観たなあと思い出したり…もっともっと…さまざまな多種多様な、そういうの全体を、「体験」と捉えて、その体験全体を「絵を観た」と称するしかないのだが…まあ、それら全体に費やされる時間だの何だのは、もう計測不可能なほどすごいものだろう。その割には判りやすい満足感は低いし…。こういうのをお金に換算することなんか不可能で、というかそういう「絵を観る」っていう行為自体はどう転んでも「消費活動」とかではなくて、当たり前だが人生なんてのは誰にとっても有限で、たかだか数十年しか生きられくて、それだけの時間配分しかないのに、それでもあえて、そんな風に一枚の絵にかかずらったりするのが、「絵を観る」という事なので、それはまあ、今の資本主義社会下における人間の行動種別的側面から考察するに、強いて言えば要するに「私が選んだ掛け替えの無いライフスタイル」なのであり、「絵を観る」事の喜びが、結果的にその事を気づかせてくれるようなものなのだろうが、…まあ前述はすべて僕の考えに過ぎないのでともかく、保坂和志の「小説の自由」を読むと、「小説を読む」というのも、僕にとっての「絵を観る」行為と同じくらい、悠長で贅沢な行為なのだろうなあと思う。