若林奮 飛葉と振動


府中市美術館にて。この作家をどう捉えるのか。彫刻家とも言えるし、素描家とも言えるし、他にも色々言えるだろうし、そのどれでもない、何か色々と考えていただけの人とも言えるだろうし、ただしこの言い方だと、人が主体になってしまうのだが、そうではなく、若林奮という人物の問題ではなく、たしかに若林奮という人物の頭の中に起こったことの問題ではあるのだが、しかしそこは、若林奮という人物の問題にあえてせず、この目の前のものたちを、自然の現象のように、自分の傍らに発生している出来事に思えるかどうか。


僕もかなり昔から、若林奮といえばあのイメージ、という感じで、幾つかの立体作品を思い浮かべることはできる。90年代の美術雑誌にも載っていたような、鉄とか硫黄とかの、物質フェティッシュ的観点で見ても単純にそれはカッコよかったのだが、今回の展示においてそういう感じはあまり無くて、やはり2003年に作家が亡くなって、その後「I.W-若林奮ノート」が出版され、それを保坂和志がとりあげ、そこで若林の文章をはじめて体験したのが、自分にとっては強烈だった。それにはじめて触れたときのおそれ慄いた記憶が、今でも忘れられない。(http://d.hatena.ne.jp/Ryo-ta/20081026/p1)


振動尺、と言うとき、とりあえず自分が以前にも書いた事のある内容に近いことを思った。つまり絵画とか空間を用いた形式で成立する、ある「何か」とは、あらかじめ与えられた場に自分という不透過物質を投入することではじめて成立への試みが可能になるから、どうしても自分の身体性を無意識のうちで土台にしているところがあり、だから画家が唐突に言葉を使うと、まるでハシゴを外されたかのような、前につんのめるような文章になってしまうのかもしれない。なにしろとにかく、定義、定義、ひたすら、座標軸の決め直しだ。そこに区切られた何かがあるとせよ、あるとせよ、その向こうに自分の身体を見よう、見よう、そのくりかえしではないか。


そして、自分と対象とを隔てるものとして、モヤモヤとした何かがあり、それはわかりやすく目の前にはっきりとしたモヤモヤとしてある。それこそモヤさまのモヤモヤのモザイク処理みたいにしてか。


しかし素晴らしいのは、あくまでもそれをリズムとして捉えようとしていることだ。異なる周波数への想像力にしていることだ。


今日はあらためて、この作家の作品を観るに値すると思わせるものは何なのか?と思いながら会場をうろついていた。それを単に、物質をキレイだなで終わるなら幸せだ。現にそういう満足も可能になっている。でも物質の強さにやや寄り掛かるところもどうしてもある。それはそれだ。それもこれも含めて、流動する時間の中で、では一体何を観て、観たことにすればよろしいのか。


これほどまでに過酷な思考を、誰も守ってはくれないのだが、美術フォーマットがかろうじて支えてくれている。美術という形式もたまにはいい仕事をした。けっこう人間的に、いい話ともいえる。