内と外


もう何年も前のことだが、大貫妙子のラジオ番組に保坂和志がゲストで出ていたときの話で「社会の内側にいる人たちはそれぞればらばらだけど社会の外側にいる人たちはつながってる」という話。


社会の中でばらばらになってしまうのは、そもそも個別に生きるための最低限の共有事項の遵守を迫るのが社会だからか。だからそれを理解した時点で社会的個人になるというか、社会の中に入るというのは個別属性を付与されるという事なのだから分断されて当たり前か。分断されてようやくはじめて社会人なのか。その上で、労働とか事業とか、象徴価値みたいな目標を与えられてそれで連帯できるという仕組みか。


というか、社会の内側に居続けることが思いのほか大変なので、それで皆がばらばらになってしまう。維持、保守するためには個々にやるしかない。その時点ですでに搾取されているということなのだろう。


自分が普段見ているネットのニュースとか、SNSとか、たまに見るテレビのニュースとか、そういう情報そのものが、この世の中のほんの一部の領域内だけで流通しているものでしかないのだろうと、最近つくづく思うようになった。社会全体の中のさらに小さなグループでしか通用しないような言説であり空気でありムード。しかしきっとグループは無数にあるし、グループの外側もある。