言葉の歴史の言葉


言葉というのは、…まあ「楽器」でも「絵の具」でも「私の体」でも、何でもいいんだけど…言葉というのは、それを使うというとき、何も殊更それ言葉を使いたくって使う訳ではないのだ。そうではなくて、何がしかをイメージさせるべく、使うのだ。でも、言葉はそのイメージと完全に同一にはならないから、経験を重ねるうちに、そういう事がだんだん判って来て、で、ある意味狡猾になって来たりもする。何かを思って言葉を使う、という一連のシークエンスを客観的に捉えられるようになって来て、もっとそういう一連のシークエンスに揺さぶりを掛けてみようと思ったりする。


直接棍棒で殴るかのような言葉は、とても人の心を打つし刺激的だ。なかなか結結論や解決に向かわない言葉は、少しかったるいけれどその分独自な感触があって楽しい。…どちらも楽しいし、どちらも言葉である。


実際、歴史というのも大抵は言葉で綴られているものである。これは本当に、今更だが驚かされる。言葉などという曖昧で不確かで、書き手の嗜好を色濃く反映させるような方法で。畏れ多くも歴史の一端を表象させて良いのか?と思ってしまう。しかし現実は言葉しかない。映像も音楽も言葉の補足でしかない。そのようにしか認識できないのだから、誰を責めることもできない。


「歴史」という事と、「今現在」という事の問題がある。戦争したからどうとか、負けたからどうとか、侵略がどうとか、そういう話では無くて、それだけ全てまとめて問答無用で信じて、最後にはあの態度をという事それ自体を、痛いほど感じる事ができるけど、それは歴史ではない。お前ならどうした?どうしたかった?この後どうする?という問いかけである。


歴史は、「お前ならどうする?」という問いかけの要素が全く無いのであれば、あまり価値の無いものかもしれない。というか、歴史は常に「お前ならどうする?」という問いかけを可能としているよう作られている。多分地図や年表とは、そのように、使うのだ。