なめとこ山の熊

青空文庫で、宮沢賢治「なめとこ山の熊」を久々に読んだ。

宮沢賢治という人は、文学とか芸術とか、そういうことはおそらく、別にどうでもいいというか興味がなかったであろう人物で、当人としては何しろ、我々の生きるこの世界が、願わくば法華経的な解決へと向かっていくことへの強い希求が、あるいは生と制作のモティベーションだったはずで、その目的のためにならば言語だろうが詩だろうが科学だろうがなんでも総動員すべきだし、役に立つものから順に試しては使い捨てるくらいの感覚で考えていたであろう。

「なめとこ山の熊」主人公の小十郎も、熊も、彼らはただ生き、殺し合い、死んでいく。そのありさまに対して、相互にある慮りというか、倫理というか、何がしかの超越的なやり取りが交わされてるのが一定の距離感から観察されているかのような、この物語はそういう感じがする。単に、猟師が熊を殺し、皮を剝いで解体して市場へ売る。そしてあるとき熊に殺される。それだけの話なのだが、その枠内においてしか生きて関係を持てない小十郎と熊が、まあ、しょうがないよねと、お互いを確認し合う、その定められたゲームを認め合い、互いに配慮しつつそれを遵守し合うような話だ(最後には架空的祭壇での鎮魂が、彼らの供養の場面として用意される)。

俺を殺すのを二年待ってくれ、おれにはやりのこした仕事があるのだ、それを終えたら、俺は必ずお前に、俺の身体を差し出すから、だから今は殺さないでくれと頼まれて、小十郎はその熊を撃たずに下山する。二年後、熊が小十郎の家の前で、口からいっぱいに血を吐いて倒れている。

そして小十郎はやがて熊に殺される。ア・・と思って、「もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。」

ここに描かれているのは、まず自然と私との間にフェアな契約関係が結ばれているということで、その上で熊は、私に信頼を寄せるし、私も熊に殺されるときに、彼らに対して感謝の言葉を述べる。

我々は、殺したり殺されたりする。ここではその良し悪しが問題になっているのではなくて、あくまでもフェアな契約、正しい共存のルール遵守がテーマであり、そのために私たちは私たちの生命を、どのように加工しうるだろうか、ただ温存するのではなく、私をどのように費消し奉仕すれば良いのかという問いかけが、切迫感をもってなされているかのように思える。

久々に読むと、重いしキツイな、、と思う。