中央線の昨日


というか…そういう程度の事でしか書けないのだが、実際はもっとやたらとおもしろいことが炸裂的に発生していて、とにかく中央線は老人はいるは中年はいるはハンディキャップを背負った人たちはいるは女子高生はいるは壊れた男子高校生はいるは遠足帰りの集団小学生もいるはで、そういうグシャグシャの人たちがそれぞれ、まったくお互いに無関心というか、お互いがお互いに、何の無理もなく、一両の車両に平然と乗り合わせていて、おかげで車内は地獄の強制収容所行きみたいな様相を呈していたのだが、でもそこには物語的なものはなく、単に普通な、たくましい生活の基底リズムだけが息づいていて、そのこと自体に衝撃をうけ、というか、それをずっと見ているだけの自分の、その傍観者的な気分に、ああこのひたすら事態を受け入れるだけの事で良いのだ、と、最終的には僕も思うに至った。


あるはずの自分の立場を見失っている状態から、はじめて文章は書けるのかもしれない。まずある立場を占めて、そこから身動きできない状況なのだが、


最初から立場が無いとか、あえて放棄しているのなら、それを描写する資格がないのだと思うが、ある立場を占めていながら、それに付随しているらしき責任を、狡猾にやり過ごしつつ、何とか文章をでっちあげるという、言葉をつくるならまずはそういうやり方しかないのかもしれない。


別に書く事もないなあと思うのだが、そんなのはいつものこと。今日は現代思想ボブ・ディラン特集を買って、岡崎乾二郎の文章をまず読み始めたのだが、まだ全部読んでないのだが、とりあえずものすごくおもしろい。先日、東京都現代美術館トークショーで話された事がほぼそのまま載ってる感じなので、聞くのはこれで二回目みたいな感じで、とてもわかりやすいし、スリリングだ。それ以外にも色々と読書。明日以降も読書。読んでない本が山積みだ。僕もそうだし妻もそうだ。ちょっと二人で必死になって読まないとこのままだと全然片付かないよ!


昨日の一日で書きたい事はけっこう沢山あったのだが、さすがにうまく書けないので、まだしばらく時間が必要だ。昨日は半日、中央線に乗っていて、そのとき自分がみた様々な事を、たとえばこのような感じを、言葉にするにはいったいどうすればいいのだろうと、ぼんやりと考え続けていた。


僕の視界に入ってないことや聴こえてこない事や俗と全然関係のない場所での関係のない言動や行動も含めて、すべてが同時多発的な出来事として起きている、ということがもっとも大切なことだという事と、それを文章で書くというのは原理的に無理ではないかという事を、昨日のおそろしいほどの晴天から感じた。


もしこのような一連の感じを言葉にできたら、それは相当ものすごいことだろうとは思えるのだが、しかしまったく言葉にできる気がしないのだった。というか、それらをひとつひとつ言葉に変換する事を想像すると、その作業の不毛さが嫌になってくる。、そうではなく、何かもっと別の、この感じを受け入れることができるうつわのようなものを発見できないことには、言葉にせよ何にせよ、むりなのだろうというのは感じた。


まあでも、不完全でも断片的にでも、ここで試せばいいのだとは思うが、それでもなかなか難しいし、それをするにも、相当な自由を保つ腕力というんか、そのポテンシャルを必要とするのだ。自分は非力なので、それは無理。


電車がホームに着いてドアががらっと開くと、扉の真四角に区切られた風景は、木の柵とその向こうのもえ立つような木々の緑でいっぱいになっていて、光が目一杯、視界の中を高密度で充満している感じというか、ものすごい生暖かくて濁ったものを含有している空気が、洪水のように電車の中まで押し寄せてくるかのような感じ、というか


…そういう目の前で見たはずの光景を、わざわざ手垢にまみれた言葉に変換するしかないというのがつまらなくて、見た、と思えた事とか、感じた、と思えた事とか、そういうのをひとつひとつ、言葉に変換して、その構成でかたちにするという事ではなく、そもそも、見た、と思えた事自体が疑わしいのだから、そうではない方法を発明しないといけない。