ダニエル・シュミット「ラ・パロマ」を観る。正確に言うと観たのは20日午後だが、この日付で書いてしまおう。だいたい「今宵かぎりは…」を観たときと感触は一緒というか、ああやはり怖い、この分厚さ、深底の見えなさが不気味でビビる、という感じなのだが、たぶん歴史に触れるというのは、まさにそういうことなのだと思うし、そのヤバい禍々しさこそが、過去というものの剥き身の味わいなのだと思う。
僕がはじめて小津の映画を観たとき、それは東京物語だったけれども、その映画がはじまってまず最初に自分の感じた印象を、いまだにおぼえている。それは一言で言えば「うわ、昔がある」という感じで、その昔というのは、自分も幼少時に直に触れた空気として、かろうじて知っているかもしれないような感触であったように思う。もちろん昭和20年代や30年代を、僕が知るわけがないのだが、僕の両親の住まいとかその地域の風土、人の感じ、風景の残滓などを元に醸成されて、無意識のうちで記憶に積み重なっていた架空の過去、それにその映画が、凄い勢いで追従してくる感じというか、あの、老夫婦が同じ方向を向いて座ってうちわを扇いでいるあの瞬間の、うわー!これは、かつて俺もこの場所にいたかもしれない!みたいな驚きというか、あの直接、匂いまで漂ってくるような感じというか、あれこそ、過去というもののほとんど暴力的とさえ言いたいほどの現前化だと思うのだが、ああいうのは「昔の日本」みたいな一般的イメージに納めたくなくて、あくまでも僕自身の勝手かつ個人的な過去の記憶イメージとのシンクロだと思ってしまいたいのだが、いずれにせよ今はもう無い何かが映像に残っている、というか映像に映っているとも言えなくて、その映像の背後に漂っている、という感じなのだが、今日の「ラ・パロマ」も、というか以前観た「今宵かぎりは…」もそうだけれども、その「映っている過去」そのものの迫力がものすごいというか、ほとんどそれだけじゃないか、というか、目を背けたいような気持ちと、食い入るように観たい気持ちとのたたかいみたいになってしまって、それにしてもまあダニエル・シュミットって、よくぞこんな映画ばかり作ったものだと半ばあきれる思いでもあり、でもやっぱりヨーロッパはすごい。一筋縄ではいかん。不安も恐怖も本場の本物でまぎれもない。糖度をほとんど感じない凄い熟成の効いた本物の大人な味わいのワインのような、おびただしい数の何百万人もの死体の上にそそり立ち出来上がった文化というものの凄み、それは、ほんとうにすごいなと思う。「ラ・パロマ」は映画としてはかなり面白いというか、飽きさせない流れで進むのでそれなりに観てしまえるのだが、それでもやっぱりこの迫力は凄いというか、とくに冒頭のギャンブルとか歌謡ショーをやってる、だらだらとした時間の流れの絶望的なまでの滞留感とか、ほんとうにヤバくて参った。ほんとうに資本主義のおわるときとか来るとしたら、ある意味皆が、絶望した貴族になる日が来るとしたら、そういうときの参考にしたいくらいだ。この映画の登場人物はブルジョワなので、金には困ってないのだが、金に困る困らないとか、そういうこととは別次元のことに、未来の人間は悩むはずだから。
まあ、この映画の登場人物の悩みはありふれた、それこそ何百年も前からある男女の、愛しているのに愛されないことの、お互いを確かめ合うことの困難さ、自身が自身でしかないことのどうしようもなさに苦しむということではあり、それがユラユラの夢だか現実だか判然としないような酩酊の刹那といった調子で描かれており、しかし恋愛は、何かへの執着、愛の注ぎ先は、なぜいつもこのように暗く結果の判然としないものなのか、この強烈なるマンネリズム、愛の行方の不明さ、手探りさえできない暗さ、自己が自己としてしか見ることを許されない世界の様相とは何なのかと、今更のように、しかし何度と無く切実に思い返すしかない。なぜだなぜだと思い、でも背中に冷水をかけられるような恐怖のイメージを観つつ、それこそが生活を成り立たせる基盤で、このグロテスクさをもって自分は象徴秩序を得ており、生活を成り立たせているのだとも思うし、まるでとってつけたように、ふいに鳴る落雷のように、あるいは、唐突に挿入された別画面内コンテンツのように、この映画にはたびたび歌が挿入されるのだけれども、それらの歌のうつくしく素晴らしいことと云ったらない。それは、意味を考えることを放棄したくなるようなうつくしさであり、もう考えるのはよせ、つまらないことはやめろ、ただ聴け、と促すような、底なしに愉楽的な何かの音である。