OKAKURA


とりあえず国家樹立直後の日本で「美術」をでっちあげるというとき、元々の大名や公家のでかい納屋の奥で埃をかぶって積み上げられてるあれらのお宝が、おそらく外国人云うところの「美術品」の品々に該当するんだろうし、それを蓄えてること自体が彼らの云う「文化」とやらの蓄積と呼んで差し支えないのだろう。言葉同士を紐付け合わせるんなら、おそらくそういう事になる。だからそれで行こうよと、いわば外国に顔向けするための必要最低限の概念として、「美術」の枠組みもまた整えられていき、その中身は後から補充されれば良いものだったのだ。そして、その枠に満たされるべき内実は、その当時から100年以上たった今も、まだ確定していないのだ。…まあ確定すりゃいいってもんじゃないのだけど。


日本が初めてパリ万国博覧会に参加したのは1867年(明治元年)である。(政府としての公式参加は1873年)その後、1878年に御雇い講師として日本に来たフェノロサ岡倉天心が出会う。既に麻薬中毒よろしく日本美術にハマリまくって目の色が変わっているフェノロサに、散々こき使われて膨大な史料編纂とかをやらされてるうちに、少しずつ岡倉の胸中にもぼやっと「日本の美術」的な認識が生まれ始めて、でもそれは少なくともそれまでの自分の主要な興味の対象だった「国家」という枠組みの中で必要とされる一要素としての「美術」だったのだけれど、でもパリ博でエキゾチックな民族文化と見なされているだけのものとは違う、もっと強い輪郭の「日本の美術」という概念をイメージし始める。


でもそれはともかく、とりあえずそろそろ大学卒業も間近になってきたので、卒論で「国家論」書いたらなぜか奥さんに焼き捨てられちゃって、まじかよふざけんなよっつって、うわやべぇ間に合わねぇだろフツー!とか云いながらその後気合入れて二週間で何とかでっちあげたのが「美術論」で、それを提出したりしてたのが、大体1880年(明治13年)くらいである。思えばこれがその後の岡倉の運命を決めてしまった訳だけど、その後、文部省に勤務して、そのときでもまだフェノロサとはずるずる腐れ縁の関係が続いていて、もはや「日本の美術」について堀固め作業をする自分を、もはや無かった事にできない位の状態になってる事は薄々感づいてたので、そこで思い切って欧州視察旅行にも行ってきて本腰入れて色々観てきて、日本人だからってバカにしやがってお前らなめんなよ、っていう気持ちも旺盛になって戻ってきて、色々あったけどとりあえず東京美術学校の幹事になったのが1887年で、パリ博初参加から二十年後の事である。


ちなみに西南戦争をやってたのが10年前の1877年で、7年後の1894年には日清戦争が始まる。この時期とにかく日本全体が大慌てしているのが目に浮かぶ。というか、おそらく「国民」になりたての日本人は、全員がブレーキの壊れた猛スピードのトロッコに乗ってるようなものである。帝国主義の狼が舌なめずりするその音を聞きつつ、やや強引ながら「国家」という概念をかろうじて打ち立てました。それで何とかとりあえずの外面は保って見せたものの、まだ中身としてのシステムはまったく存在せず何もかもが準備中である。


この時期の「人々」の暮らしは大変だった。まるで「国」という名の底無しの空腹を抱えた巨大怪物が、手当たりしだいに地上の人やモノをむさぼり食っていき「富国強兵ー!!」と雄叫びをあげつつドンドン地響きを立てて前進して来るようなものであったろう。最低限の食料すら確保できず、東北などのでは村ひとつが壊滅する程の餓死者が出たり、親が子供を娼婦宿に売ったりという事も行われたらしい。この世の地獄というか、死んだほうがマシというか、まさに悪夢のような時代であるが、それこそ悲惨とか可哀想とか考えられる余裕のある視点すらどこにも無く、ただ各々が生きようとする蠢きだけがあって、とにかく未来を乗り切るためには「国家」が必要で、さらにその「国家」がわきまえていなければならないいくつもの諸概念がある事だけは確かで、おそらくそのうちの小さなひとつに「美術」も含まれていたのだ。そういう「外面」のことなんか、日本の中で日本のほとんどの人が無理なく普通に暮らせるようになってから考えてやればいいじゃん、順序が逆じゃん。と思いたいけど、できるのなら誰だってその順番でやりたいだろうけど、そうじゃない順番でやるしかなかった…。何万もの人の命と引き換えししてでも、やるしかなかった。。


貧民がいる。軍人がいる。官吏がいる。商人がいる。幼年学校に通う子供がいる。毎日野良仕事を手伝う子供がいる。総じて貧しく厳しい時代である。でも恐ろしく開放的な明るい空気に満ちていた時代なのかもしれない。まあその辺はわからない。…でも、この時代、美術学校に通う奴って一体どんな奴だろう?けっこう不思議。


1890年より、岡倉天心は遂に東京美術学校にて「日本美術史」の講義を開始する。それ以降も強力な教育・指導力横山大観、下村観山、菱田春草らを従えて、日本近代美術の基礎を築き上げていく。(しかし、その流れで考えてると、朦朧体とか半ぼかしとかが、イメージを具現化する欲望というか必要に迫られた技法ではなくて、まず近代・日本・美術の独自性を確立させるという目的によって召還された作戦であり、「枠組み」の中に注がれる内実としてはじめから効果を見込まれていた技法であった事がよくわかる。しかしここで間違えてはいけないのが、だからといって大観や春草の絵が「つまらない」とは云いきれないという事である。それは個々の作品にあたって判断するしかない。)