伊東深水の「宵」と「雪の宵」


二週間ほど前に埼玉県立近代美術館伊東深水の「宵」を観た。初めて観る訳ではなかったが、かなり久しぶりに目にして、それであぁ、これはやはり素晴らしい、と思ってかなり長時間絵の前にいた。まずさっと目に飛び込んでくるのが、暖簾と寝そべる女性との組み合わせの驚くべき単純さで、当たり前の事を当たり前に、何の思惑も下心もなくそのまま絵になってしまったかのような当たり前な感じでイメージがそこにあるかのような手さばきにうたれた。あとは浴衣の柄や帯の群青の恐るべき鮮やかさを観て、手の指の線やうなじや髪の生え際の描写なんかを観ているだけで、幾らでも時間はたってしまう。。で、そのとき考えていたのは、やや大げさかもしれないが、自分がこれを「素晴らしい」と思ってしまうことを受け入れようという事だった。これの素晴らしさをそのまま放置するのではなく自分で受け入れ、自分の中でちゃんと大事に暖めようという事を思った。


その後、近代以降の日本画--主に風俗画・美人画--が多く載ってる画集などを古本屋でざーっと探して、色々と物色していた。所謂、文展院展周辺の作家が集められている画集や展覧会図録たちである。…正直このあたりの作品図版や、一作家の時代ごとの作品変遷なんかを眺めていると、これらを「素晴らしい」と感じる心がやや疑わしく思えたりもする。やはりこれらはどうしようもなく下らないのでは?という悪い予感もしなくもない。。そうとしか思えない作品もある。モノによっては、とても狭いところで不毛な事が繰り返されているようにしか見えないところもあるかもしれない。でもそれなら、じゃあ下らないものと下らなくないものとの違いが何か?を一生懸命探ろうとする。でもそれがどうにもはっきりしなくて、不安ばかりが大きくなって、自分の観る力自体の自信も揺らぐ。


で、そういう思いを断ち切るようにして、えぇい!っつって、観ていた本を皆ドサッと重ねてまとめて会計に持ってって、そのまま予想外な金額を払ってしまい、金はともかくこれ全部じゃとても重くて持ち帰れないからそのまま宅配便で自宅まで送ってもらうように頼んで帰ってきた。…で、それが数日後に届いたので包みを破いて中から出てきた何冊かを改めて適当にパラパラ前後しながらじっくりと見てみた。最初にざーっと観て、もし「うわあやっぱクダラネー。大損した。買うんじゃなかった」とか思ったとしたら、それでこの話は終わりなのだが、改めて観てると、やっぱりなかなか良いのだ、最悪な事にこれらはやはり僕にとってとても大切な何かである…。


でもやはり「良い」と思える心と「いやこれは…」と思う気持ちが混濁している状態から抜け出せた訳ではない。というか、たぶんその複雑な気持ちはそのままずっと持ち続けるかもしれない。それを理屈で考えようとすると、なぜか気付かぬうちに日本・近代・美術の起源を問う、みたいな話になってしまって、そういうのを読む事になってしまいがちだ。それもまあ確かに読んでる分には面白いのだけれど、おそらくその話から理解できる事と、実作品が醸しだしてる素晴らしさや微妙さとは無関係と思われる。…なので、まあ何ともまとまりもなく、そもそも、わざわざここにウダウダ書く程の事もないような話なのだが。


で、その後数日たって昨日の事であるが、久々に竹橋の近代美術館に行って、企画や常設を観て来たのだけど、常設展示での近代日本画は、季節に沿った雪景色とかの題材を多めに並べてるようで、まあそれはそれで結構な趣向なのかもしれないとは思った。…で、ここでも深水が展示されていたのだが「雪の宵」というタイトルの、雪景色の中をふたりの舞妓が寄り添いあって歩いている絵であった。


そしたらこれがまた恐ろしく良い作品で、でも、ええ?まじかよ、と思う瞬間もあって、正直自分を疑わしく思いながらも、しかしやはり僕は誰に何と言われようが自分がこれを「素晴らしい」と思ってしまうことを受け入れるように頑張るしかないと思った。…何が良いって、この絵は冬を描いているのだ。そこが良い。たとえば美術館とかが「冬だから冬景色の作品を並べましょう」とか考えるのとはまるで違うレベルの、底知れぬ「心尽くし」があるように思われる。冬を描く、という事への畏れがあると言うか…ここで描かれている着物や羽織姿自体は、たぶん確実に、冬の寒さを直に吸い込んでいる。これらは絵の部品ではなくて、ちゃんと防寒の役に立っているような何かだ。埼玉で観た「宵」は夏の絵で、そこでのうちわであおぐ女性の浴衣も、やはり夏の暑さや湿度や汗をしっかり吸い込んでいる何かで、決して絵の一要素なんかでは無かった事を思い出す。そんな要素だの部品だのに、人は心を動かされる筈がないのだ。考えてみれば当たり前の事だった。


これらはどちらも同じ画家による、美人画と呼ばれるようなジャンルの作品なのだろうが、そんなの事はまったくどうでも良い事であって、あの絵とこの絵で試されている事は、もうまるで違う事である。夏の景色を描く事と冬の景色を描く事に、何の関係も繋がりもない。それぞれがその場で全力で試された真剣な行為の結果である。当たり前のことじゃないか?今は冬で寒いから、しっかりとそのような絵にしようよ、その為の努力をするのが、描くという事だよ。それをしないのは、お前が怠けてるんでしょ?と云われたようにさえ感じて、改めて、自分ももっと徹底的に真剣にやらないとダメなのだなあと思った。