「ヴィデオを待ちながら --映像、60年代から今日へ--」


竹橋の東京国立近代美術館にて。主に60〜70年代から現代に至るまでの、ヴィデオアートの黎明期からの作品の展覧会である。しかし美術というのはテクノロジーに対して、これほどまでに無垢で繊細で傷つきやすいものか、そういう事になってしまうか、と思った。美術が、なのか、美術作家が、なのか、よくわからないが、とにかく彼らは、ヴィデオに映る事の驚きや驚きや怖れや不安を、まるで隠そうともしないのだ。たとえばこれが美術ではなく、普通のビジネスとか商売であったら、その最新テクノロジーがどれほど驚くべきもので、私がそれにどれほどのショックを受けたのであっても、その驚きはとりあえずカッコにいれて、当初の予定をもう一度見据えて「作品」を作り、何事もないかのように、しかしアピールすべきポイントはきっちりと外さないでアピールし、ちゃんと誇らしげに、こういうショックなど、専門家の間ではまるで何年も前から旧知のことだとでもいわんばかりに提示するのが普通ではないか?それが「大人の仕事」ってものだろう。しかし、美術作家はそうではない。はじめてテクノロジーを手にした美術作家はまるで、はじめて道具を手に持った類人猿のようだ。持ち上げたり振ったり太陽にかざしたり、そのものの素性を凝視して、そのうち次第に、そこからあぶり出されてくる自分自身の身体や自分の気配を、はじめて出会う他者のように、いつまでも飽きることなく凝視するよりほかはない。それは「映る」事があまりにも無根拠に信じられすぎているようにも感じなくもない。いやしかし、そういう言い方はいくらでも言えるだろう。やはりこの人たちは、ヴィデオを手にした事の驚きと可能性を、このようにやり遂げた人ということで、その事自体に何も文句のあろうはずもない。


でもかつて、100年以上もの昔、この世の中に、写真というものがはじめて登場したときの美術作家の感じたであろう体験と、今回のような、はじめてヴィデオを手にした作家たちの体験とは、ずいぶん違うものであろう。写真というのは人類にとって初めて経験された新しいフレームだったのだと思うが、それと較べると、ヴィデオとか8ミリとかいうものは、すでにテレビや映画等で散々見てきて、見慣れている既存のフレームでしかなくて、しかしヴィデオというものは、テレビや映画等の、散々見慣れてはいるがしかしその中の被写体の立場にたつという話になるとこれはこれで相当難しいと思われるような、そういう強固に組み上がっている仕組みに異物としてふいに介入してきたようなもので、その見る/見られるの間に存在する強固な垣根を取り払う力としてものすごかったのだろう。機械を手に入れ、ちょっとした操作だけで、ブラウン管モニターとかでおなじみの、あのフレームが再生され、その被写体は自分が主体的に作ったものであるという、あまりにもお手軽にその状況を実現出来ることの、そのとてつもない恍惚と不安という事だ。


美術の作家たちは、そのことに正面からうろたえ、おどろき、自己防御や弁護を図るこころのゆとりすら失って、皆がそれぞれ、思い思いに、ヴィデオカメラの前で何がしかの「表現」をこころみ、一刻も早くその表現の、安定した鑑賞者の立場まで至れるように、駆け足で試行錯誤を繰り返しているという感じに見える。その真剣な態度が、何とも滑稽でもあり、切なくもなるような記録の数々、のようにも感じられる作品群である。


上記の文章はその大部分をヴィト・アコンチの作品から受けた印象に基づいて書かれている。小林耕平や泉太郎ら現代日本の作家の作品を観ていると、素晴らしい品質に驚くとともに、もはやこれらは、ヴィト・アコンチがかつて死ぬほど苦しんだ場所から遙か遠くの、かつてヴィデオを携えた誰かがそんな苦しみに翻弄された事など、まったく想像もできないような地点で、完全に作家の手に馴染んだ道具として存在しているようにも思う。(いや、それは浅はかな言葉かもしれなくて、実はとても複雑に器用に折りたたまれて、未だにそれはまだ存在しているのかもしれないが…。)というか、もうまったく別の問題に取り組んでいる、という事だろう。そのほかに印象に残ったものとしては、一番クールで知性的で、絵画の問題に対してヴィデオをツールとして駆使させる事に成功したのはブルース・ナウマンであろうと思った。ビル・ヴィオラはキャリアの初期から圧倒的に洗練されている事がわかる。フランシス・アリスの楽しい作品はほぼ爆音に近いような音響が素晴らしい。リチャード・セラは爪を掃除すべき。フィッシュリ&ヴァイス「事の次第」は有名な作品なのだろうが、その運動の連鎖性に惹かれるというよりも、ひたすら繰り返される極めてケミカルな化学薬品系の白煙やら炎やらの様相自体に魅了されるという感じだった。