「美術になにが起こったか 1992-2006」椹木野衣


美術になにが起こったか―1992‐2006


美術の中でも、イベント性の強い作品とか、パフォーマンス的なものとか、体験の一回性が重視されている作品の場合、もし僕が、観客としてその場に居合わせれば、結果的に大変得難い体験をした、と感じる幸運に巡り合うのかもしれない。(非常に運悪く不愉快な思いをした、と感じる可能性もある)しかし、その作品が、イベント終了後も会期中展示されるのであれば、大多数の人は、そのイベントの残骸を観る事になる。その場合、目の前の展示物は「かつてここで何かが行われた」という想像を働かせる為の触媒だろうか。


作品が何かの触媒になるのはまずいだろうと思う。いや、作品は、何かの触媒でなければならないのだけれど、それでも、過去の行為の証拠のようなものではいけない筈だ。ここで、かつてとんでもなく素晴らしい事が行われていたんですよ。でも今は、その残骸しか無いんです。(でも、だからより貴方の脳内で、「かつて何がおこったか」について想像が膨らむでしょ?)という展示は、とてもつまらない。


「美術になにが起こったか 1992-2006」を読了。とても面白かったし、色々な事を考えたのだけれど、とりあえず今、すごい手抜きっぽく大雑把に感想を記すとすれば、上記のような感じだろうか。椹木野衣氏の文章を、昔から僕はとても好きでずっと読んできたのだが、それでもやっぱり、ここで取り上げられている各作品は、今、ここで素晴らしいモノとして存在しているのか?といったら、微妙なものも多かろうという事なのだ。もし、この書物に取り上げられた作品群が、尚も素晴らしいのだとすれば、それはおそらく、この書物に記された文脈と全く無縁に面白いのだと思われる。


昔、アノーマリー2「909」という展覧会を僕も観に行ったのだ。1995年の事だ。…でも、そのときも別のときでも、なぜ彼らはいつも、常に僕が居ない場所でとても楽しそうに盛り上がっているのだろう?そして僕が遅れてようやく、のこのことその場所にいくと、既に彼らは誰一人として残っておらず、何やら作品らしきものがぽつんと取り残されているだけというのが常であって、僕はいつも、それを一人で寂しく見つめて、それでひとりで家に帰ったのだった…。


なんちゃって!!


…ちょっと寂しげモードなテイストを演出してみたが、まあ実際、それ自体が演出なんだろ?とも思ったりした。云わば「祭りの後」演出。鑑賞者全員に「ああ、僕は決定的に遅れてしまった!」と思わせる周到かつ狡猾な作戦なんだろ?と。…しかしそれもまた、随分つまらない妄想だ。ってか、僕もかつては寂しい人だった。美術とかやる人以前の、社会性を欠いた精神的に未熟な寂しい人でした。今は寂しくないのか?っていったら今も寂しいのですが、「青春」が終了すると寂しいのが普通だし、誰でもそうだが、むしろそっちの方が心地よくなってしまうのであった(笑)


でも僕は、今思い出してもあれらの作品群を、やはり観るに値するものだったとは思えない。というか、あれらの作品は、僕が思ってる何かと決定的に違う。だから、もうそうなったら、多分永遠に他人なのだ。だから、(結構悲しいけど)こう言うしかない。さようなら。


でも、このアノーマリー2「909」という展覧会に行って良かった!と思えた唯一の事。それは会場に置いてあった椹木氏の手による展覧会コンセプトおよび出品作家紹介を記した、極めて熱気に満ちた文章が満載の小冊子をゲットできた事であった。この文章は椹木氏が手がけた様々な文章の中でも極めて素晴らしいクオリティの代物である(…に違いない)…年月を経て随分古ぼけてしまった手元の909パンフレットより引用する。

展覧会のタイトルである「909」だが、冒頭で示した通り、<POP>という言葉を鏡に映して左右反転させた像を見立てて読み取ったものである。算用数字が国籍を超えて、インターナショナル(要翻訳)というよりはトランスナショナル(翻訳不能)であることも含みこんだうえで、ここでは輸入した概念に対する「加工」のモデルを、ローランド社製ドラムマシンTR−909の例に求めた。したがってそれは、TR−909がもはやドラムマシンではないという意味と同じように、もはや<POP>でも「ポップ」ではありえない。あえていえばそれは、TR−909がドラムスのシミュラクルであったように、ポップのシミュラクルとでもいうべきものなのである。 (誰が909なのか)


…カッコよすぎだ…ぐうの音も出ない。っていうか、語呂合わせが上手すぎで超ライムってるところが良い。(「909」→ローランド社製TR−909→裏返したPOP!しかも前身のTR−808について散々前振られて暖まっているので余計に効果的!)…という事で、椹木氏は偉大な文章家=「物語る人」である事は間違いない。


でも、それはそれとして…っていうか、実は美術は、本当のところは常に遅れて体験するべきものなのだ。その事にもっと早いうちから気付いていれば、20代とかの若いときにあんなに苦しまなくて済んだのに!悔しい!とか思う。そう、今、目の前の作品を丹念に観れば良いのだ。かつて「美術に何がおこったか」なんて、ものすごくどうでも良い。っていうか、ムーブメントとかそういうのは真に受けない方が良い。ご縁があればまたいずれ出会うのが、美術作品というものなのだ。


(全体を通じて、後半に収録されている近年の「殺す・な」に纏わる一連の文章や飴屋法水とのメール交換の内容が非常に面白かった。椹木氏は、もはやモノとしての作品が介在する必要の無い場所でより本領を発揮するのかもしれない。というか、僕が作品というものに対するフェティシズムを持ちすぎなのだろうか) …まとまらねえがもうやめた。