何度でも現れるために


まあ、美術なんていうのは、観たい時にいつでも観れるっていうところが良いのだと思う。もちろん、現実はそうではないし、貴重な作品や名作なんかを観る為には、それなりの労力を費やさなければならないのだし、大体、観たいと思ってもなかなか観れないのがほとんどではあるのだが、しかし、美術は元々、出来上がった直後と、展示されている只中と、展示終了後と、その後何年も経ってからとで、基本的にその様相を何も変えない特質を持つメディアなのであり、それが長所でもあるのだから、まあ所謂「その場を盛り上げる」だとか、「会期中、熱い熱量の発信が続く」だとか、そういうのとは相容れないところがある。勿論、作品自体は長年の時間堆積により劣化したり、相応に変化はするものの、美術にとってそれは回避されるべきだが避けられない障害なのであり、場合に拠ってはそれが一層余計に根本部分の普遍(でしか在り得ない)特質性を露にもすることもあろうが、基本的には表層で起こるエラーに過ぎない。


音楽であれば、その音が解き放たれる瞬間を捉える集中力とかが、演奏者や観客に意識される事は多々あるだろう。っていうか、演奏者の出す音とそれ以外の者(物)の出す音を明確に区別するのが難しいのが、音楽というメディアの特質であろう。このようなメディアと美術とは根本のところで組成が異なるのだ。


美術はいつでも回帰する事ができる。だから、今、ここにある事に殊更囚われる必要は全く無い。何度でも立ち現れるので、もし観客が今、作品を前にしていながら別の何かを観たって構わないし、また別のある日どこかでもう一度思い出したり、再度チャンスを得て、それをいつか体験すれば良いのだ。


多分、だから、よく判らないが、かつ唐突かもしれないが、やり続ける事はきっと大事なのだ。ひたすらやり続けて、やめてないという事が肝心だ。仮にほとんど誰にも顧みられないとしてもだ。常に作ることと、常に観られる事に備えるのが大事だ。まあ言うは易しで、実際、それは異常に難しいのだが…。特に、観られる事に備えておく態度を維持するのはとてつもなく難しいと思う。