大沢昌助展

練馬区立美術館で「生誕120年 大沢昌助展」を観る。大沢昌助。1903年生まれ、1997年に93歳で死去。ほとんど20世紀の全部。作品は20年代から没年まで、途切れることなく制作されている。これほどまとまった分量でその作品群を観るのは、(自分は)はじめてだ。

およそ60年代から作風が一気に抽象化していくのだが、それが、ある一貫性をもった求道的な一直線な取り組みという感じでは全然ない。たとえば抽象形式がその枠組みによって制作者をがんじがらめにするとか、還元の徹底によって絵画の絵画性に行き着くとか、描くことの目的が喪失して「失画症」に陥るとか、そういう類の「抽象的行き詰まり感」から、大沢昌助の作品はもっとも遠い。

あえて言えば無節操、落ち着きもとりとめもなくて、スタイルは軽妙に変化していき、神経症的な生真面目さ皆無で、なによりも優先されているのは、描くことの歓び、あらゆるものから隔絶した絵画空間だけの歓び、運動のキレと躍動。その歓びを一身に受け胸を高鳴らせている画家のこころ、という感じだ。

画家の長い一生をもって、制作が途切れることなく、よろこばしい躍動に満ちたまま展開して、それが寿命によってある日切断されたという、これはそれ以上でも以下でもなくて、人生だの物語だの、そういう紋切り型の情感がまったく付け入る余地のない、このさっぱりとした、ほとんど物質的な爽快感だけが残された感じ。

時代によって、けっこう色々なものに目移りする人だったのでは…とも思う。岡本太郎的な原始美術だったり、アメリカ型抽象表現主義だったり、書や文字だったり、そういう様々な意匠に(理屈抜きで、あくまでもザックリと一見しただけの掴み方で)、なんの屈託もなく寄り添っていき、またふっと離れていき、抽象画家でありながら、そこにはまるでフォームに対する思い込みや囚われがない。自分に与えられた自由度を、当然の権利として遠慮なく行使してる感じだ。(それが自分に許されていることの確認作業のようだ)。

しかしまるで脈絡なし、一貫性無し、というわけではない。デタラメな感じは微塵もない。モロにロスコっぽかったり、ブライス・マーデンっぽかったりするのだけど、決して「そのまま」ではない。あるいは「取って来た」感じでもない。外観はあくまでも外観に過ぎない。作品としては、やはり大沢昌助の作品なのだ。ここまで節操なく色々とやるのに、すべて大沢昌助である。それこそが凄い。

ただその一方で、やはり「日本という環境」を思い起こさずにはいられない。日本に生まれ育った日本の抽象画家、そういうのが可能であるならば、大沢昌助は一つのサンプルだろうけど、日本で抽象作品をつくり続けるとは、つまりはこういうことなのだろうかと、このような変遷で作品を展開(展開?その言葉の意味自体の定義からして見直しがいるような)させるしかない。これ以外に考えられないものか、そんな思いが、もやもやとした。

最初から最後まで、完全に画家として仕事をし、生きて暮らした、昭和という時代を主な活躍の舞台とした画家の、ほぼ最後の方の一人であるだろう。東京美術学校で藤島教室を出た同期前後には、猪熊源一郎も岡田謙三も牛島憲之も小磯良平も山口長男も東郷青児もいたとのこと。