「フリータイム」 チェルフィッチュ Super Deluxe(六本木)


生暖かい空気に包まれて歩く。鼻先を沈丁花の香りがかすめる。。それってベタに春だなあという感じ。春としか言いようがない。そんな陽気の中、六本木まで行き、チェルフィッチュの「フリータイム」という芝居を鑑賞する。僕はこういう小劇場的な演劇を体験するのがおそらくはじめてだったので、すごく新鮮であった。


はじまって、大体想像通りの雰囲気だったにも関わらず、ああいう風に、生で、しかも取り立てて強く現実と虚構との境界線を感じさせないようなやり方を観てると、僕のような初心者には、ほとんどそれが、何かひとつながりの持続性をもった作品に思えなくて、一個一個の独立した行為をそれぞれ見てるだけみたいな感じを、予想以上に強く感じた。役者の話す言葉や表情やしぐさ自体に、強く引っ張られてしまって、その後の(お話、というかそこでぼやっと醸し出されようとしているものの)繋がりに関心が向かなくなってしまうとか、役者の誰かの、また別の話についてはほとんど興味が持てなかったりとか、もっと極端な事をいうと、鑑賞してる僕に背を向けて、後ろむいて喋ってる役者の話してる内容は、自分に話されてる気がしないし、実際話されてる声も、反対側に向けられてると、意外とこちら側からは聞き取りづらかったりして、それだと内容にもあまり関心が向かなくなったりするけど、急にこっちを向いて喋られたら、え?何?何?みたいに一応聞く耳をもつみたいな現実的な作用もすごくある。それにやっぱり役者の人の顔とか、手とか、スタイルとかプロポーションとか、素足の足の裏とか、洋服の皺とか、演劇の表面にあるそういうすべても見るわけです。そういう事を僕なんかはどうしても見てしまう。なのでこれは、もうあまりにも複雑だし深読みも聞くし何よりもすごい蠱惑的なので、その意味でもう大変おもしろいのは確かなので、できればもう一度か二度くらい観てみたい。(でも時間がないのでもう無理)


開演前に、携帯の電源を切れとか、その手のアナウンスがあるかと思ったのに無かったので、ああそういうの全然来るなら来いという事なんだろうなと思った。始まってからも、役者が喋りながら、芝居の虚構性の中にいながら同時に、客席のあちらこちらに視線を向けて、観客全体の意識とサシで向かい合うというか、こちらの気持ちを直接喚起させようとでもいうかのような仕草が何度も出てくるけど、その視界に客席の片隅に居る自分が入るか入らないか、みたいな事が、ぼやっと意識されているし、それと同時になんだかんだ言っても本当にやばいことにはならない、という高を括った安心感もあって、それにすがって観ているところもある。しかも僕が居た場所は、役者の皆さんが舞台を出たり入ったりする通路のすぐ脇で、僕のほんとうにすぐ脇を役者たちが通り過ぎていくので、そのたびに僕は少しからだを心持ちよけてしまうくらいで、実際、僕がちょっと足を前に伸ばしたら下手すると歩いてくる役者さんたちがつまづいて転ぶんじゃないか?ってくらいの位置で、そういう場所だとなぜか、ふと気づくと僕のすぐ脇で、ひとりが体育座りしていたりもして、それって位置的にあなたより僕の方が舞台に近いっていうか、ほとんど僕もステージにいるのと同然かもしれないじゃんとか思って妙に緊張した。それに心持ち下を向いてステージから戻ってくる役者さんたちが、どの辺まで演技モードで、歩く途中で表情が「素に戻ったり」もしてるのか?とも思ったのだけど、何度も何度も出たり入ったりする役者さんたちの、そのときの表情を、なぜか怖くて見れないのだった。なのでこっちが逆にやたらと気を遣って下を向くことになってしまう。だからさっきまですごい長台詞で話してる役者さんをぼーっと見ていたら、その役者が急に話をやめて、俯いてがんがんこっちに向かって歩いてくるので、見てるこっちも慌てて素に戻って目が合わないように下を向く、みたいな(笑)…なんか如何にも芝居鑑賞初心者丸出しの自分が微笑ましかった。


途中に挟まる休憩時間で、客席のあちらとこちらを橋渡すためのカーペットがひかれるのだが、それを作業してるスタッフたちの「それ、あれ、そっちいい?」「うん、いいよ」みたいな会話を聞いていて、ああこれこそが、ここで行われた事なんだなあと思った。もちろんいつでもどこでも誰かによってやり取りされてる言葉なのに、それ自体の何というよるべなさだろうと思って呆然とする。このどうしようもなくそのままなやり取りのそのままさ。


芝居の終盤、最後の5分とかで結構感動させられてしまうのだが、でも結構苦い味わいの物語で、そのファミレスの160円でおかわりが自由なのかそうじゃないのか、とか、アメリカンの濃度とか、ファミレスでそれって有りか無しかっつーと無しな方になると思うんだけどとか、…そのあたりの話が繰り返される事について、まあ僕なんかは正直、もうなんだよこれは勘弁してくれよ、という苛立ち感をほんの2%くらい感じているところもある。そういうのマジで勘弁してくれ、キツイよと。理屈こねてないで乾布摩擦でもしろよと。お前今の自分を殺してあと5年くらい奴隷みたいになって働いたら、そんなのいつか考えなくなっちゃうよ?それでもそのとき未だ同じように思うなら、そのときはじめて考えれば良いじゃん、とかそういう苛立ちをおぼえもするのだけど、それって僕もそういう風に苛立つ程度には、青臭い人間なのである。チェルフィッチュを観ると、それがよくわかる。