前にもブログに書いたことがある気がするけど、たとえば僕が、役者として演技しているところを自身で想像するのは困難だ。それは自分にその能力がないと思うからだ。ふだんの生活においても、喜んだり泣いたり怒ったりする振る舞いや表情や喋りかたを、自分なりにコントロールする能力が低いと思うからだ。
逆に、この人はそういう能力があるな…と、思わされるような人はいる。というかおそらく世間一般で「人当たりが良い」とか「感じがいい」「コミュ力高い」などと評価される人は、つまり一定の演技力をもつ人と見なせるように思う。表情や仕草や喋りかたに、一定以上の自由度をもつというか、操作の熟練を感じさせるというか、つまり能力、自分の身体を自分である程度意図的にコントロールする力。テレビに出ている人物(不特定多数に自身の外見を公開する立場の人)ならば、その能力は必須だろうし、たまたま見かけるお笑い芸人の芸も、ほぼそういった能力の駆使によって笑いに結び付けているものが殆どである気が、自分にはする。
しかし、それはそもそも「演技力」なのだろうか。それは自分の身体を高度に操作できるのだから、ひとつの能力には違いないけど、役者として演技する能力とそれとは、また別ではないか。たとえば濱口竜介監督の映画作品にしばしば出てくる役者の棒読み芝居があるけど、あれは場面によっては不気味なくらい明快に棒読みに徹してることもあればそうでもないときもあるけど、しかし基本的には全編通じてかすかな棒読み感が絶え間なく通底してあるように感じられる。それは役者が、まず固有の能力を使うことを禁止された状態であって、それこそ代替可能な役割に徹している状態だろう。映画の役者は、そこに映っている人物が究極的には誰であっても、その登場人物でありさえすれば事が足りるのだから、そのような状態が目指されているだろう。その理屈から行けば、そこに映っているのがプロの俳優ではなくて完全な素人の僕自身であっても、映画は成り立ってしまうだろう。
もちろん(おそらく)、役者(プロの俳優)という仕事の難しさとは、ここに書いてきたこととはまた別にあるのだろうと思うが、少なくとも、必ずしも身体能力の高さだけが、役者の優劣を決めるというわけではない。というか、固有の身体性がおもてに出過ぎる役者というのは、映画的には「良くない」とされがちである。高い身体能力としての「演技」は、よくできたウソ、より精巧な作りもの、実体を覆い隠す偽りの表面といった、「よくできたフェイク」の意味を担うこともある。すなわち「演技力」とは、身体=外面が、精神=真実を隠す、その能力の高さを意味しもするだろう。しかし「演技」についての、そのような捉え方や考え方自体に、疑問が浮かびもする。
能力があるから、優れているから、才能があるから、私は役者なのだ。というのは真理だけど、ある枠内での真理でしかないとも言える。まったく何の理由も必然性もなく、なぜか(しかも今だけ)(そんなつもりがないにもかかわらず)役者なのだ、という状態が「正しい」場合もある。
「あの映画に出てた俳優の○○、最高だったな」と思うとき、その良さは、○○の個人的能力に還元されるばかりではない。むしろその個人の外側を巻き込むかたちでしか、良さを思い起こすことが出来ない。○○の能力とは、○○以外の要素をも巻き込んでしまう俳優の力だ、などと言いたいわけでもない。それはたぶん人間に担える類の能力とは違うものだ。自分の努力とか良心とか能力とか、そういうのが届かないところでの何かだ。
というよりも「俳優の○○が、最高だったな」と思うとしたら、その俳優はそこに能力など発揮していないし、頑張ってもいないし、およそそういうこととは無縁なまま、しかし存在はしているから、そう思ってしまう。能力という言葉から遠く離れていることに対して、そう言ってるのだ。
唐突だけど、酒井耕・濱口竜介の「なみのこえ」(気仙沼、新地町)は、とりあえず濱口竜介がかかわったこれまでの仕事の中でも、もっともすぐれたものの一つではないだろうか。その素晴らしさとはまず、出演してる「役者」の素晴らしさだとも言いたくなるが、いや、あの作品に「役者」は一人も出演していない。出演しているのは震災の被災者である。にもかかわらず、やはりあの人々は「素晴らしい役者」であると、ここでだけは強引に言ってしまいたい。あのようなものを観てしまった後では、他の凡庸な映画で「役者が演技」しているのを見る気にはならなくなる。
人間は、こうして終生「演技」をするものなのだな…と思う。もちろんここで言う「演技」とは、「本当でない」とか「いつわる」とかの意味ではない、そういう意味での「演技」の概念自体が、これをみると揺らぐ、という意味でだ。
「プロの俳優」とは、自分というものをその場に投げ込んでみたらそこにどんな波紋が広がるかを想像する感度が高い者であり、それが出来るだけ負の広がりにならぬよう細心の注意を払いつつ、自分の投げ入れ方を試すことのできる、その精度が凡人よりもはるかに高い人たちなのだ、とは言えるだろうか。