瀬戸物

江藤 そういうふうに「もと(傍点)」の方から、土のほうから解きほぐしていく見方で見るというのは、どういうことなんですか。

小林 だいたい、ものに親しんでいると自然にそうなるのですね。たとえば瀬戸物なら瀬戸物は、目につきやすい絵付けがはじめにパッと見えるが、親しんでいると絵を抜けて先へ行くのですね。
 触覚の世界へ、どうしても行くのですよ。膚や、地だな。土の味にはいって行くのです。表面的なつきあいがつまらなくなって来る。絵付けからボディにいく。いじっていると自然とそうなる。人間のつきあいでも同じ意味合いのものがあるじゃないかね。つきあいの経験が、そうさせる。焼き物を手元においているとはそういうことだ。
 手元におかず、展覧会に行って見るということは、どうも具合が悪いのだな。年季の入れ方みたいなものだな。瀬戸物でボディを見ている人は、案外少ないのですよ。外側を見ているんです。

江藤 そうすると社会的になんでも通り一ぺんの浅いつきあいですましているということは、われわれの生活にずいぶんあると思うんです。瀬戸物に限らない、絵でもなんでも。たとえば絵なら展覧会に行ってしか見ない……。

小林 そういうふうに見ると、膚を経験するというようなことは、なにか特殊な見方のように見えるでしょう。だが、それが一番自然な見方なのだ。
 茶わん好きは、必ず茶わんをひっくり返して見ます。糸底を見る。糸底というのは、茶わんのヘソの緒みたいなものですね。あそこでロクロから離れる。その離れ方から見ていくのですよ。でき上がりから見ていくやり方なのよ。絵でも絵が描けていく絵画の仕事の進行通りに見るのよ。そういうふうにものが見えてくるのは、非常な自然なのだ。それを逆に見る……。

誤解されっぱなしの「美」 小林秀雄 江藤淳


かなり胡散臭いというか、怪しいというか、ものの見方、味わい方についての言葉として、それはあまりにも恣意的で根拠薄弱で自己満足的な鑑賞法に感じられなくもないのだけれど、とはいえここには、何か引っ掛かるものがある。

成り立ちの部分を聴きとろうとするのは、よくわかる気がする。どのような行為の結果そうなったのかを考え、その行為が呼ばれた理由、それが無しから在りへ移行する瞬間を想像するというのは、わかる気がする。たとえば音楽、ソフトウェアで作られた最近の音楽。PC画面上に複数のトラックが並行してシーケンスパターン内を埋めている、あの画面イメージ。

音楽を聴きながら、あれを思い浮かべている人というのは、実際にいるはずだ。あれを思い浮かべているということは、音の一つ一つが、並行する帯の移動になっている。それぞれの強弱や大小をもつ複数が整然と混ざり合う。生前と混ざることを、すでにイメージできてしまっている。それが「膚を経験するというようなこと」であり、「それが一番自然な見方なのだ。」と言うことも、できるのだろうか。

先月見た岡﨑乾二郎「TOPICA PICTUS」については、観てしばらくのあいだは、あれを観たとはどういうことなのか、何をもって観たと言えるのかを、考えざるをえない気持ちにさせられた。それこそ「あそこでロクロから離れる。その離れ方から見ていくのですよ。でき上がりから見ていくやり方なのよ。絵でも絵が描けていく絵画の仕事の進行通りに見るのよ。」と言われているような感じがしたのだ。成り立ちが見えない、だから、時間的推移への不安を感じたのだった。つまりあれが、「それを逆に見る……。」ことを要請されているのだとしたら…。