「ぐるりのこと。」シネスイッチ銀座


「子供をもたない」「鬱病にならない」のふたつを、なんとかやって、生きてみる映画、なのだと勝手に解釈した。それはもう、死ぬほど過酷で、痛ましく、観ていてもう死ぬほど泣いてしまった。夫婦で観て、上映終了後は、ふたりともがっくり落ち込んで、その日はまだ何も食べてなかったのに、食事などまったくする気にもならず買い物も寄り道もする気にならず、言葉を失くしたまま帰路につくよりほか無かった。


全体的には、やたらと笑えるし、泣けるし、良い映画だなーと思える。世界中のみんながこの映画を観れば、世の中ももう少し良くなるのではないか?とすら思えるところもあるのだが、でも正直ちょっと、観たことを後悔する気持ちもかなり大きかった。まあ、僕の場合はもともと精神的に弱いし、こういう病気としての「鬱病」ものをあれだけリアルに演じられると、それだけでもう、相当うんざりしてくるというか、もうよくわかったからそのへんでやめといてくれないかなあ、という気持ちにさえなってしまう。ああいうベタ芝居というのは、誰だって泣くにきまってるので、その意味ではまあアレな訳だが、でも確かにリリー・フランキーは魅力的な男性だ、という人が多いのはよくわかる。


っていうか、これだけ書いた印象だとまるで極限状況がベタに描写されてるだけの痩せた映画みたいな感じに思われてしまうかもしれないが、まったくそんなことはなくて、脇役も含め色々な登場人物がそれぞれすごく魅力的だし、世界がしっかりと映画の中に充溢していて、豊穣な内実をもった、すごくいい映画だと思う。


ところで、この映画には、絵がいっぱい出てくる。法廷画とか、あるいは、亡くなった赤ちゃんの寝顔や、母親と別居している木村多江の父親の顔とか、そういうのの鉛筆で描かれた細密画、とか言いたくなる様な感じの絵が、わりとしばしば出てきて、カメラにしっかりと捉えられる。あるいは木村多江が自分を世界に向ける大きな手段として、もともと美大日本画専攻という設定なので、もう一度絵を描く事を選んで、それをお寺の天井にがーっと展示する。法廷画は、かなり機能主義的な絵だから良いけど、木村多江の「復活」をあらわす植物を描いた日本画は、どうしたって絵として観ざるを得ない。だから、なんとも複雑な思いにかられる。あなたが元気になってほんとうによかったね、という事をあらわす以上ではない絵、というものほど寂しいものはないではないか。本作に限らないけど、映画の中で「絵」がとらえられるときの、何とも気まずい感じというのは、あるよなあと思う。。そのとき映画は必ず、無意識のうちに、ここに映ってる「絵」の善し悪しはカッコにいれてね。これはあくまでも映画の小道具なんだから!と必ず声なき声で云うのだ。音楽だとあまり、そういう事もないのだけどなあ。やっぱり絵って「難しい」ものなのだろう。