大手町から歩いて、竹橋の近代美術館へ。暑い。夏だ。


小倉遊亀は、入浴してる女性の絵は何度も観たことがあって、それまではとくに何も思ってなかったけど、今日「O夫人坐像」を観て、あらためてこれは凄い画家だと思った。顔も面白いし、着物のあらわれかたのリアルさも息を呑むようなものがある。対象を捉えるには時間が掛かり、その時間のスライスが何層にも重なるようにして絵ができていくという、それが、理屈ではなくて、絵としてちゃんと成り立たせられてあって、しかしあらためて思ったのは、日本画の、小倉遊亀にしても伊東深水にしても前田青邨にしても、本当にとてつもなく上手い、ということだ。上手いというのは、単に上手い。という話を超えて上手い、ということだ。今回の展示では、それらの作家による肖像画が数点展示されているのだが、深水の「清方先生寿像」など、顔もさることながら、手前にはみ出してくる着物の肘のあたりの感じとか、ほとんど信じがたい、と感じてしまう。前田青邨の「Y氏像」もそうで、よくもまあ、この顔を、絵として掴めたものだと思う。描写力が、とか、そういうことではなく、筆力、眼力、などという言葉でも足りない気がする。なんか、本来はそうであっては支障がある要素まで、図らずも出てしまっているかのような、なにしろちょっと、突き抜けたものがあるように思う。今はもう、この世界の誰にも、こんな風には描けないだろう。それはつまり、かつては在ったはずの、描く力とかメソッドが既になくなった、ということと、描かれる対象が既になくなった、ということの二つを意味するだろう。まあ、描かれる対象が既になくなったということが、イコールそれを含む描く力とかメソッドの消失を自動的にあらわすということだろうが。そういう意味での、まさに文字通り、故人の肖像。ということか。


これはたぶん、今の自分が知ってるつもりの絵というものの基準に照らしてどうのこうの、ということではなく、自分は単にこういう、昔のおじさんの肖像みたいな絵が好きなだけ、という程度の話というだけのことなのかもしれないが、でもつまり、それは、こういうおじさんたちも含めた、かつてのこういう世界のなかで、絵も、そのように取り組まれていた、ということ自体の、おさまりのよさというか、きれいさみたいなものへ憧れがあるということでもあって、たとえば「写生とは、モノの表面にかくされた、本質をつかみ出すことで、それが対象に迫る、絵の何とかを、どうのこうの…」みたいな、今では違和感を感じるしかないような、そういうモノの言い方が、ぴったりとハマッていた世界も、かつては当然あって、その言葉でディシプリンを重ねて、ある境地にまで行けるような世界があったというのが、ほかならぬそれらの絵から感じ取れて、それはたぶん作品の中に独自の自律的概念機械が動作している、とかいう話とは微妙に違うのだろうが、でもそれはそれとして、やはりそこには、そのときの凄みとか迫力と呼ばれたものの、香りとしてまだ画面の前に漂うような気がする。ノスタルジー、というのともちょっと違う。よくわからないが、凄くぴったりとした仕立ての着物を着ている気持ちよさ、みたいなものだと思う。


あと小企画展「都市の無意識」で上映されていた「東京もぐら作戦」という1966年に東京都下水道局企画で製作されたPR映画が素晴らしかった。何が凄いと云って、フィルム撮影されたその映像のうつくしさである。市川崑の「東京オリンピック」みたいな、カラー映像の根源的なうつくしさに陶然とする。60年代の東京。下水埋設という東京のインフラ基盤構築過程の一断面みたいな、とくに下水っていうのはやっぱり、ついそういう、ふだんは隠されてるのが見えるというのは、つい食い入るようにみてしまうものである。


ミュージアムショップで小林正人「空戦」の図録が売ってたので買う。そのあと平川門から皇居の二の丸辺を歩いて、大手町まで戻って丸善に行く。


暑い。夏だ。太陽の暑さが背中全体に注ぐ。セミの声を聞く。ああ、夏の前が終わった。


帰りにスイカを買った。四分の一くらいに切ってあるやつで、これで390円とは、まだちょっと高いと思われる、スイカをぶら下げて歩く。ポストから新聞を取ってドアまで行く途中で、買い物袋や重い鞄や新聞を片手だけでぶら下げていて、逆さまになった紙面をみたら既に梅雨明けしたと書いてあるのを見つけた。