珈琲時光


ホウ・シャオシェンの「珈琲時光」をDVDで観る。先月観にいった「黒衣の刺客」とは、似ているようで全然違う映画。別人が作ったかのように違う。「黒衣の刺客」は、ホウ・シャオシェンの面白さとは違うかもしれない。リー・ピンビンを観る面白さはあるが。


珈琲時光」をはじめて観たのはおそらく八、九年前くらいだが、この映画でロケ撮影されている場所のほとんどが、僕たちがここ十年近くひたすらウロウロしている場所ばかりで、もちろん僕はこの映画の登場人物のような生活をしているわけではないし喫茶店にしょっちゅう立ち寄るわけでもないのだが、それでもこの映画に出てくるさまざまな場所が、まさに近所という感覚があるので、なんだかまるで自分たちが、これまで十年近くかけてずっとこの映画のイメージを実際に歩きながらひたすら確認し続けていたかのような不思議な感覚におちいった。


これは、驚かされるのは、編集で余分な箇所をそぎ落とすやり方がすごく徹底していて、ほとんどあと一歩で意味不明というくらいの、全容としてはものすごく荒く削り出した、いや、大雑把に組み合わせた、だけの、ごろんと放り出された何かの塊り、のような雰囲気をもつ映画なのだが、こういった、ばさばさと編集していくのと同じようなやり方は、小説を書くときでも可能なのだろうか。


ある程度大量に書いて、それをつなぎ合わせて、余計だと感じたら切るという。それは小説の技法でも、モンタージュとか、カットアップとかの手法はあるだろうし、それは可能か不可能かではなく、やり方次第なのだろうけど。でも「書かれた一連のもの」を編集でつなぎ合わせていって、たとえば断章形式としてあらわす場合と、とりあえず一個の物語にしたいという場合とで、どのような違いがあるか。というか、僕の興味は、ばらばらのそれらを、それをとりあえず一個の物語にしようとしたときにどうなるか?ということで、その場合はやはり、映画のショットとショットがいきなり接合される暴力的な衝撃と同等のものが、接続のときに生じなければいけないのかなと思う。つまり一個の物語にしようという不自然で無理を強引に押し通そうと、力でねじ伏せようとする手付きが、部分的に露呈してしまうような感じなのかなと思う。その手付きの出し方によっては如何にも嫌らしい感じになるだろう。しかし、強引でも下手でもいいし、繋がってなくてもいいのだが、それでも何かの感触が、ボワッと出てくれないものかな、とは思う。