「組立」対話企画・磯崎憲一郎×古谷利裕


表題の対談を聞きに川口のmasuii R.D.R gallery へ行く。でも、出かける前に、磯崎憲一郎「肝心の子供」と「眼と太陽」を昼過ぎから出かけるまでの間、粗く再読した。そしたら「眼と太陽」で僕は、大きく勘違いしている事に気づいた。まず、最初の、デトロイトの深夜、トーリが初登場するシーンは「夏の夜だったとはっきり書いてある。僕はそれまで冬だと思っていた。冒頭は、夏なのだ。考えてみれば、トーリの服装を考えれば、そりゃあそうなのだが、僕は再読するまで冬だと思っていた。なおかつ、トーリの明るい緑色の袖なしワンピースの事はおぼえていて、冬なのになんでこんな薄着なんだろう、外に出るときは、ものすごい厚手のロングコートでもはおるのだおるか?これは本作の謎のひとつだな!とか思っていたのだから困ったものだ。あと、遠藤さんが主人公と「同い年」であるという事実も、あらためて知った。完全に「人生の先輩」的に思っていたので、すごく意外だった。


上記はどちらも、対談の中で触れられて、すごく興味深い話だったのでああなるほどそうかぁ、と思ってもういちど最初から読み返したい誘惑が強く出てきてしまって困った。殊に遠藤さんの話はへー!と思った。


しかしその瞬間が、冬なのか、夏なのか、それは、記述をアリバイとして数え上げて、論理的に追っても意味のないことで、もっと感覚的なもので、いわば非常にいいかげんな判断で決めてしまうようなことが往々にして起こる。自分の勘違いを正当化するわけではないが、僕の中で「夏の夜だった」という言葉よりも、その後の「冬の森が好きだ」という言葉とか、もっと後の「リュックサックを背負った高校生の男の子の吐く白い息」とか、そういう言葉の方が強く作用してしまったのだろうと思う。


ところで、磯崎憲一郎さんという方をはじめてこの眼で見て、しかし、写真でもそうだが、実際の姿も、ほんとうにカッコいい人だなあと思った。磯崎さんを見たとき、ただちに以下の文章を思い出した。

私は三十歳になったばかりだったが、二十八のころよりもずっと若返ったように感じていた。気持ちが若返ったのではなく、肉体の状態があきらかに違った。尻や腰に脂肪がついてたるんできて、どうせこのまま醜く太っていくのだろうと覚悟していたところが、ウエストのサイズはいつまで経っても変わらなかった。変わらないどころかすこし細くなったぐらいで、全体的には筋肉質になったようだった。視力も落ちなかったし、息も臭くなかった。禿げてもいなかった。だが、白髪だけは増え続けた。アメリカの水がいけないのだという人がいて、それからは水道水は決して飲まず、ミネラルウォーターだけを飲むようにしてみたがそれでも白髪は減らなかった。(眼と太陽)

この、変な自意識も含羞も屈託も感じられない、中年である事のだるいあきらめとさばさばと小ざっぱりした気分だけで、さらっと自分の身体を記述してしまう感触というのは、僕からみるとほとんどすごく眩しいものに思える。僕は感覚として、明らかにもっとウェットで古い体質なのだという自覚がある。だから、ある種のうとましい感じすらほのかに感じてしまうのだけど、でも魅力的な人って大抵、そんな感じなのである。だから古谷さんの仰っていた「胡散臭さ」という言葉は、僕が勝手に自分本位に解釈して、そうそう、と若干溜飲が下がる気分もある。…というのは、言い過ぎ、というかウソだけど、でも古谷利裕さんが言っていた「胡散臭さ」という言葉を、磯崎憲一郎さんは笑いながら「なんだかそれって失敬だな!!」と言っていたが、この「胡散臭さ」という言葉は明らかに褒め言葉だと僕には思えて、もし僕がそんな事をいわれたら嬉しいだろうなあ、と思えるような言葉のひとつで、それはたとえばやたらと濃い雰囲気に満たされた、残響音いっぱいの怪しげなサイケデリック・ブルース・ミュージックみたいなものとか、別に本場の本格ブルースじゃないし、コケ脅しっぽい薄っぺらい浅はかさを微妙に含んでるのかもしれないけど、でもそれでこそ香る独特な雰囲気というのがあって、最強のロック・ミュージックというのはえてしてそういう雰囲気をまとっているものだと思うのだが、「眼と太陽」とはつまりそういうテイストの濃厚に香る、でも軽々しくは手を出せないような、大人向けのヤニ臭くマホガニーな仕上げの渋い一品だ、という事なのだろうと思った。もちろんそういう魅力が自作に含まれてるのだ、という事は、磯崎さんご自身も充分わかっていて、それであえて、「失礼だなー!!」とか、照れ隠しで、そう仰っていたのだろうとも思った。